「音楽づくり」が小学校の音楽の時間に入ってから随分経った。その前の「つくって表現」の導入からすると、数十年経たことになる。
子どもがメロディーをつくることや、効果音のような音世界をつくる試みは、これまでにもあったが、音楽の構造を理解して子どもたちの考えでつくり表現することは難しく、やっと音楽をつくる本質を体験することが叶ったようだ。
子どもは斬新な、現代の音楽情報に詳しいわけではない。そこは授業で学び、サンプルとして先生から音楽がどうつくられているか学ぶ必要がある。その情報を基に自分たちで考えて、つくり、表現するには大変だ。決められた時間内に体験させるには指導案通りの「シナリオ」だって必要だ。学校ではその「導入」だけでも意義がある。それを作品と呼べるまでに育成するには、小学校の授業時間だけでは無理がある。校門を出た後の成果になるはずだが、その環境は殆どない。ブラスバンドや合唱が社会で拡がっていくことから比べると、音楽のオリジナルをつくり合う楽しみは拡がっていない。
それを拡げるのが社会教育の広場だろうが、その指導者もいないから校門を出ないでいる。音楽大学はその指導・育成も必要とされているのだが、教員側にそのノウハウが無いし、コンクール成績を持ったステージの上から音楽を広げる技術が主となって育った人びとには、音楽をつくることの手立てさえ持っていないのが現状だから創作には期待薄になってしまう。
私は30年以上もその手立てを音楽大学が持つ必要性をコトあるごとに仲間や大学に提言してきたが、私の代では成果が出なかった。今その芽は出てきているので、これからの先生がたに期待するしか無い。
音大が生き残るのは、そういった社会で活躍できる人材の育成だが、ステージの上から人びとに語りかけるのをよしとする体質は、そう簡単には抜けないだろう。音大卒業生の生き残ることは社会での創造的な活動も必須条件となっていくだろう。
