坪能 克裕 公式ウェブサイト Ⅲ(2001〜)

Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

はじめに

 本ブログは創設以来20年になり、この度三度目のリニューアルをしました。

 本ブログでは以下の四つを順不同で記して行きます。

 まず自作を含めた音楽の仕組み、音楽の構造を記します。

 二つ目に筆者が今も携わっている、また経験してきた文化事業の仕組みとその過去・現在・未来などを、次世代育成を含めた雑感を記して行きます。

 三つ目に坪能克裕が関係する演奏会案内などの「お知らせ」を、四つ目に折々の記を「百紀夜稿(ひゃっきやこう)」の名で記して行きます。

音楽は仙骨から

 スポーツや武道に限らず、音楽も同じで身体を使い表現する基は「仙骨」にある。腰を使う、腰から動かすとよく言われるが、骨盤全体を言うのではなく、その中央にある仙骨の使い方が重要なのだ。このハート型の骨は動かないように思えるが、鍛えると動くのである。そこから全身を動かさないと、筋肉や筋を痛めることになる。無意識でも偉大なアスリートは鍛錬で使う術を知っている。球技などでもタマを捉えるのは仙骨と向き合うからで、音の捉え方も同じなのだ。

 ピアノを弾くひとは全身で弾いているように見えるが、小手先や上半身だけで弾いている人が多い。歌でも楽器の演奏でも同じで、頭でなく仙骨でリズムやハーモニーを感じ、それが音楽の豊かさを感じる基になるのだが、クラシック音楽家のベテランではそれが分かっているひとは少ない。

 このトレーニングは「掌鉄球」(ソフトボールの球に似た少し重い球)を両手で包み持ち、仙骨からゆっくり上下左右に動かすところから始める・・・これは私が発見して実施したことではなく、マレーシアに住んでいた和道<合気道の一種>の達人、故・早川師父(シーフー)から学んだ事だった。私なりには、確かにゴルフでも野球でも球の飛び方も違って来たし、音楽の波動をみんなと共有する術としては、自在な表現ができる技術だと感じた。しかし私の後進の指導に対する受け持ち講座は「作曲」であったため、音楽でこの技術を受け継ぐひとはいなかった。

天才の芽

 子どもは自分で考えて表現する術は、本来天才だと感心する程の力を持っている。創造は模倣からと言われているが、大人の方が物まねの段階で留まってしまっている人びとが多ようだ。そして子どもの可能性や子どもの新発見、新表現は、固定観念の強い経験豊かな大人が評価出来ないでいる。いや、潰してしまっていることが多いように思われる。
 ただ、子どもたちは情報量が少ないことと技術が未熟な点は否めない。そこを必要に応じてサポートして差し上げるだけで子どもは体得して自由に表現していくのだが、大人は子どもの幸せを願いすぎてお節介に向かうことが多いようだ。もちろん情報や技術というのは、何歳になっても常に習得していかなければならないし、精神的な熟成に早道や楽な手だてはないから大変だ。

 例を一つ。子どもに増音程など歌わせてはいけないし、歌えないとされていた。ましてそれをテーマに「音楽づくり」をするなど、絶対に無理だとも言われていた。譜例にあるのが1998年に小学校の子どもたちと音楽づくりをした時の拙作のテーマだ。20世紀の大作曲家がつくった十二音音楽を、いとも簡単に穫り入れてオリジナルを子どもたちの複数チームがつくりあげて行った。特に驚いたことは、子どもたちがチームを解散した後、テーマを歌いながら帰っていたことだった。それも歌いにくいとされる音程も正確にスキャットで歌っていた。

 声の出し方でも、画一的な教え込み出なくても、自分たちがカッコいいと思う表現で歌っている。ただどうしても評価を受けたりや褒められたい気持ちがあるので、大人の顔色を見てしまう機敏さが問題になることもあるが、子どもたちの自由な表現を黙って見聞きしていると、宝石の原石のような耀きで音楽を楽しんでいる場面に良く出会う。

読み聞かせ

 「読み聞かせ」という言葉は日常的に誰もが使っている。読み聞かせる、読み聞かせてやる、という凄い言葉に誰も疑わない。公民館活動や学校でも展開されていて既に市民権を得ている。どうして「朗読」、または「朗読プレゼント」とか「朗読交流」ではいけないのだろうか? ステージに立ったような錯覚がそういう言葉を生むのだろうが、でもその一番上手いスターはそれぞれ子どものお母さんだったりしているのだ。

 もう一つ、文化会館が主要文化事業企画の一つに挙げている「アウトリーチ」というのがある。これも芸術が素晴らしいので普段触れることのできない人びとに出向いて行って見聞させる事業だ。上から目線の言葉はもう要らないのではないか? と提言を文化会館にしたことがある。簡単な話し「出前公演」であり、文化会館を神社にしたら、参拝できない人向けに「お御輿興行」する企画になっている。それが文化会館の宣伝も兼ねるなら「キャラバン隊」にもなるが、出前が美味ければ本店に食べに行かなくても済む話になる。ともかく偉そうな言葉でなく、重要な企画だと思うなら文化会館のステージと同じ品質が伝わる「スペシャル公演(○○編)」の方が立派だと思う。

波瀬満子

 波瀬満子(はせ みつこ)を知るひとは少ないかもしれない。亡くなって十年程になるだろう。実力も人気もあった奇人・変人の天才だった。文化芸術や芸能界には、中身が無いのに目立ちたがりの芸人が多いのだが、波瀬さんはお笑い芸人でもないのにステージに立った瞬間、どこか可笑しいし怪しく、瞬時に観客の目を集めさせ「ことばあそび」の世界に誘ってくれるのだ。とにかくボディランゲージを加え「あ・い・う・え・お」(拙作の音楽で)と踊り出すかと思うと、ことばあそびによる早口言葉や朗読劇 、一人芝居で詩の世界を展開させていくのだった。

 もう45年も前に現代音楽のイベントのステージで、私が乱数表を無表情に淡々と読み上げている隣で、天気予報を様々な感情を込めて表現していた・・・悲しそうに泣きながら読んでいるかと思うと、突然笑いながら、怒りながら、また歌舞伎調のように、時にはひとをバカにしながら、読み上げていくのだった・・・
 ヘンな女優と出会って以来、沢山の仕事をご一緒させていただいたが、このような天才女優は他の追従を許さない国宝のようなアーティストだった。

 半世紀前に、詩人の谷川俊太郎さんと「ことばあそびの会」をつくり、たくさんの書籍やステージ、録音・録画のお仕事をしていらした。時には人形と共に「あらま先生」となり全国を回り、晩年は NHK・Eテレでことばあそびの番組に出演されていた。とにかく企画からも TVの画面のワクからもハミ出る活躍に、子どもから大人までビックリしながらも楽しませていただいたようだった。

 キングレコードの「ことばとあそぼう」シリーズも私が音楽を担当させていただいて凄かったが、ブリタニカ版の同名のそれは最高傑作だと思っている。しかしもう手に入らないが、持っている人は「お宝鑑定団」行きだとも思っている。

悪党団員の家族

 映画などで見られる、悪党組織に立ち向かうヒーロー物語に登場する悪党団の団員それぞれの家族はどうなっているのか、どの物語でもズ〜と疑問に思って見ていた。
 何百人も制服を着た、主に男たちが黙々と一糸乱れずボスのために働きヒーローにやられて死んでいく・・・どうやって組織に加わったか、給料や契約はどうなっているのか、賃金を貰ったら何時何処で何に使っているのか、各種保険や保証は護られているのか、恋人や家族がいないはずはないのだが、すると秘密は漏れないのか、脱走するヤツはいないのか・・・しかし大体がそんなことを考えるヒマも無く殺されていく。殺されなくて怪我をした人たちは何処の病院に収容されるのか、その後のリハビリはどうなっているのか・・・考えたら切りが無いほど興味は尽きない。
 日本のチャンバラ映画でもそうだ。切られたらピクリともしないで死んでいくが、そう簡単に絶命できるはずはないと思っていた。切られた人の葬儀やお墓はどうなったのか、残された関係者・家族はどうしたのか知りたかった。切られた人にも小説一冊分の人生があったろうが、そこに光をあてた物語はそうないものだ・・・
 など考えて映画を見るヤツはいないかもしれない。でも子どもの頃からそこを知りたくていたが、悪党団員の日常はいまだに私には理解できていない。

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