大自然は超低音から超高音までの組み合わせによるシンフォニーが既に鳴っている。時と場所や大気の環境・条件によって瞬時に変わって響かせているが、基本的には海底から高空まで揺らぎながらも音に埋まった壁のようなクラスター(房)に包まれ響かせているのだ。
宇宙の場面の映像を効果音で聞かされることがある。ピュンピュン飛び交う音や、キィウ〜インとした高音が多いが、みんなウソである。空気の無いところでは音波は伝わらないからだ。無音ということだ。
作曲という行為は、その大気の一部を切り取って人びとと共有することである。基はゆったりとした大気のながれのなかの音と触れることだが、それを瞬時に選び、選んだ人が音を組み合わせることにより、我々の耳に聴けるようにしていることをいう。だから切り取り組み合わせた人が、再度大気に呼び掛けると、一人の声でも、楽器でも、百人から千人の交響楽団の楽曲でも、自然のなかに解き放たれて一体化した瞬間を味わうことができるのだ。ここでは原理を言っているのであって、質の善し悪しやオリジナルを問うているわけではない。ロックバンドの音楽やオルガンなどの器楽曲、合唱から民族音楽など、人びとの好みや包まれ方は様ざまだが、人それぞれの自然との一体感の基は同じで、人びとは大気の揺らぎのなかで至福を感じるのである。
拙作の混声合唱曲に、団員が三々五々ステージに集まって来て「大気のヘソを押す」行為から、それに短音の声を加え、次第に音が混じり合ってシンフォニーをつくっていく音楽があった。それは名演で、私は感激したが、誰もいいとは言わなかった。もう再演されることは無いだろうが、私は自然の中で常に自在な響きが生み出されているのを聴いている。