小学校の教室で「音楽づくり」を楽しむことにした。東京下町の小学校5年生ひとクラスに、音楽教育の専門家(学校のクラス担任と音楽教師も加わり)、作曲家の私、そして打楽器奏者3名ほどでチームを組んだ。
子どもはプロのひとの仕草(表情から技術まで)を見ているから、技術を「教えないで、子どもが発見するまで待ってね」という依頼をした。何が違うか「考える」こと、素敵な音を「発見する」ことが一番大切で、それを基に簡単なリズム・パターンを子ども自身が考え、「つくり」「表現する」ことが目的だった。
当然、子供をサポートする専門家チームは打ち合わせ、シミュレーションを繰り返し、本番に望むことにした。
子どもたちは楽器庫から思い思いの打楽器とバチを出してきて叩き始めた。音が静かになったので、どうしたのか見ていると、打楽器奏者それぞれの前に子どもを一列に並ばせ、バチの持ち方、正しい打楽器の叩き方の「レッスン」を始めていた。
打楽器からどんないい音が出せるか、考える時間を持たせることなくカタにはめて行った。きっと打楽器奏者の生い立ちもそうだったのだろう。そしてそれ以外の手立てを持ち合わせていなかったのだろが、本末転倒な時間になって行った。この打楽器奏者との体質はもっと大きな問題を産んで行った。