「坪能克裕とその周辺のこと」という文章が「音楽芸術」に載った。76年に音楽之友社・創立35周記念で、管弦楽曲と論文を公募し、その論文部門の一位になったもので、当時の都立目黒高校の生徒が応募した作品だった。

 70年代前半、前衛音楽の嵐が日本の作曲界にも噴いていた。その頃、私は音大生から卒業したての時で、創造と破壊の狭間で暴れていた。怖いものなど無かった若造の時代で、その狭間を鋭く突いていた。だから誉められた内容ではなく、いま展開されている現代音楽に問題が無いのかどうか、坪能たちの若い作曲家はこれでいいのか、疑問を呈していた。高校生としては破格の分析と論調に、今でも圧倒される文章だった。審査員が推挙するだけの説得力があった。
 私はあるがママ受け止めていたが、日本の音楽界では拙作の内容とは別に、エラく私が(悪役で)有名になってしまった感があった。

 その後の「坪能克裕とその周辺がどうなったか」については、誰も語っていない。私が正当化する問題でもないから、多くの人びとは現代音楽での活動は知られないママだ。「領域の拡大」を展開して、現代音楽が一般のひとや子どもにも、学校や文化施設から社会の様ざまな団体とも結びつき拡がっていく構造を作り展開させたが、自慢する内容では無いと思っていた。

 その文章から40年経ち、日本現代音楽協会(当時の会長が坪能)で新年会が開催された。祝辞を国立音楽大学の事務長さんから頂いた。そこでは70年代前半の私の狼藉を知っていて「アレで音楽だと思っていたのか」問われる内容に、私は顔から火を吹いたのを覚えた。優しい祝辞だったが、強烈で過去の犯罪は消えないのだと思った。