感情を込めて物語を読み上げること、が朗読に違いないが、この頃感情はもちろん込めるのだが、淡々と本を読むだけで無くなってきた。物語の主人公になりきって演じる舞台も、市民が出来るようになってきた。本は持っているが、本も表現の小道具の一つになっていき、顔の表情も目線も演劇と変わらない演出も定着してきたようだ。
市民ホールで朗読の講師を前任者から引き継いだことが私はあった。前任者はNHKのアナウンサー・プロデューサーの経験者で、滑舌や読み上げる基礎から市民に教えていた。でも行き着くところは NHKのアナウンサーが理想に見え、誰が読んでも同じ品質が保証される読み方のようだった。
もっと本から感じるまま表情を全身で現していい、抑揚だって必要に応じて付けていい、舞台の上なら歩いても飛んでも寝て読んでもいい、というのが私の考えだったから、市民(多くは女性)は自由に恥ずかしがらずに堂々と、いや豪快に表現し始めていた。
朗読のコンクールが東京であった。会に所属の市民グループ有志が挑戦した。何でもアリの彼女たちは舞台全体を使って囁き、絶叫し、飛び回った。審査員は誰も顔を上げず聴いていた・・・結果「合格」通知が届いた。コンクール主催者が会費を払えばステージに乗れる、という誘いまで付いたが、その合格者は断ってしまった。誘った方は「こんな名誉な話しにどうして参加しないのか」食い下がったようだが、「コンクールという場で表現してみたかっただけ」というのが自由な市民表現者の感想だった。
気の毒だったことは、私の講座受講後に、地方の文化施設で朗読クラブに加入のオーディションに参加すると、「朗読ではない」と言って入会を断られてしまう人が出たことだった。そのくらい今でも保守的な分野かもしれない。