Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

月: 2021年5月

録音の妙

 同じ楽器編成。ここでは3〜4名の楽器アンサンブル。同じ場所で同じマイクを立てて、同じ条件での録音を順番に三人が挑戦した・・・録音した音楽を聴いてみた。これが三者三様で全然違った音楽録音になっていた。
 エコーやフィルターなどのお化粧をしないスッピンのママの音楽だが、録音した人の個性がしっかり残っていた。ひとりはシャリシャリした少しやせた音になり、もう一人はアンサンブルを生で聴いたママの響きがして、最後の人は高音や低音がふんわり伸びて行く感じで録音されていた。
 基は顔の輪郭だ。いくら化粧をしても輪郭は変わらない。三者はそれぞれプロだから、後は企画や作曲などの制作者や聴き手の好みとなる。

 私たちが携帯の簡易録音機材で同じ素材を録音しても、微妙に違って録れている。録る人の目(心)が何処にあるかで、変わってくるようだ。
 今までで一番驚いた録音は、フランス国籍(現・日本在住)のプロデューサーが「秩父夜祭」を録音して、日本の文化をヨーロッパの放送局で発表した作品を聴いた時だった・・・普通日本人が見聞する音ではない、竹が山車の車と軋み合った音の上で屋台囃子が鳴っている音風景だった。

 私の録音時のリズム隊はドラムスのキック(バスドラ)のつくりで決まった。録音技師の腕が一番だが、キックを固めの音につくり、それに太鼓類を順次重ね、ベースと合わせ、ギター・ピアノと加えて行くサウンドづくりだった。

楽器開発③

 電子計算機や電子時計の一流会社、 C社が極秘に楽器を開発していた。何が新しくて、いい音なのか、という楽器製作者と私の闘いは、1980年の新楽器の発表まで続いた。音だけでなく「鍵盤楽器は鍵盤だけの平らな一枚でいい」という意見も私は持っていた。「入れ歯」を平にしたイメージの楽器だと、それを縦に積み上げたシンセサイザーになって使いやすいと思っていた。同時多発のようなアイディアは80年のカナダの楽器ショーで現実のものとなった。

 計算機や時計の製造販売会社が楽器を開発・発売を今後展開するには、「音大卒業生で優秀な人材が必要だ」ということになった。そこで「各大学の先生に優秀な師弟を紹介して欲しい」ということになったが、内容が秘密なのでどんな仕事が計算機や時計と音大生が結び付くのか説明が付かなくて困った事があった。
 もう一つ。秘密の役は、業績として表に出ない「裏方」の仕事で、口が堅くて呼ばれた仕事は、この仕事に限らず誰からも評価されないまま時間が過ぎて行った。

楽器開発②

 いい音、いい声は、波形の基音が明確だ。基音とそこからの倍音の組み合わせが個性を決めている。しかしそのいい音を集めたり重ねたりしても、音の豊穣さにつながらない。個性の無い音の束は単一色でしかない。

 個人でもアンサンブルする人びとでも、同じいい音(声)を持った人びとの団体は無個性になることが良くある。音や楽器の個性はノイズのような、ちょっと「困ったちゃん」の活躍が面白くさせてくれている。それは楽器だけでなく、他の分野でも共通する秘密のようだ。困ったちゃんを生かした仲間が新しい世界を創出できるということだ。だから困ったちゃんは堂々としていていい。

 同一色で透明な声を響かせる音楽も素晴らしい。芯のある音や声の仲間に、ダミ声やハスキーな声が入り、解け合い響き合っている団体の音楽はシンセサイズされた現代の響きになるようだ。
 「この音はいい音ではないのか?」という楽器開発での論議と評価には、常にその塩梅が必要とされるのだ。

楽器開発①

 いい音、面白い音、新しい音は必ずしも一致していない。しかし新しい電子楽器をつくるには、それらの課題をクリアさせる必要がある。
 電子キーボードは電子回路を使ったシンセサイズ(合成音)で出来ている。その回路づくりに各社の秘密がある。既成の電子オルガンもシンセサイザーと同じで、常に新しい素材の組み合わせで音が生み出されている。

 試作段階では必ず一つの音が「何故いい音ではないのだ」、という議論が技術者どうしで問題にされる。既成のアナログ楽器に似ていれば「いい音」だとも言える。しかしアナログ楽器にない、いい音の判定は難しい。既成楽器にない音だから面白い合成音としてユーザーに支持されることもある。楽音に無い変わった音は人の感性に支持されるか微妙な問題が残る。

 【サンプリング】という技術がある。ピアノやヴァイオリンの名器の音を記録し、鍵盤上に再構築する術だ。それは名器と区別が付かないほど優れた音に再生可能だ。そこに個性や新しさが何処まであるかは別問題だ。
 友人にオナラをサンプリングした人がいた。それでベートーヴェンの「運命」や「ぞうさん」を弾くと、それはそれで面白いが、その面白さは何にでも使えるかというと難しい問題になる。新しい音といっても、楽曲とのマッチングで生かされないと使われないことになる。

 楽音の原理は、純音・平形・矩形・鋸歯状波などの組み合わせだが、その塩梅具合なども製品の個性になる。新しくていい音の創造は簡単ではない。それぞれの波形を持った音が同時に響き合う組み合わせは、オーケストラやパイプオルガンと同じで、それらの波動がシンセサイズされた世界に人びとを誘わせてくれることになる。

フラッシュモブ

 音楽がメインのイベントに絞っての話題・・・もう十数年前から町なかで突然音楽の演奏に出逢う機会が生まれた。公共の広場で、大通りで、アーケードで、一人が音を出すと次第に人びとが楽器を持って集まり音楽が始まり、例えばラストは合唱も加わってベートーヴェンの「第九」になる、というイベントだ。

 ここには重要な二つの異なる世界がある。
 一つは、音楽の始原の素晴らしさだ。一人の行為が人びとの共感を呼び、多くの人びとと輪をつくり一体化し、世界を共有する。何と素晴らしいことか。
 もう一つは、「第九」を例にとってもいいが、指揮者が出て来て広場がステージになってしまう「企画」(事業)。結局は演じる側と聴く側を分けて、誰かが音頭をとってまとめたことになる。アンサンブルは聴き合い、息を合わせて表現するものだが、結局はステージの野外版で、意外性や出前のサービスを除くと、二回目からは驚きもなく、広場の人びとはイベント自体の賛否に分かれるかもしれない。

 1970年前後は、前衛音楽の宝庫だったと思われる。偶然性や音楽の限界を問いながら表現していた人びとが多かった・・・70年、私たちの仲間は学生食堂に散らばって座り、時間と共に自分たちで決めたリズムや音程で一つのフレーズを繰り返しながらアンサンブル。そして規定時間を使い果たすと退席する、という音楽を発表した。人数は十人ほどで、楽器は固めの「センベイ」で演奏(かじる)・・・其処彼処で「パリッ」「カキッ」。そのうちに食堂中がバリバリ、ボリボリ、パリパリ。騒音に聞こえた人びとと、センベイの強烈なニオイで、食堂のおばさんたちに追い出されたが、参加者と一部の聴いた人は満足感で満腹になった。

大気を切り取る

 大自然は超低音から超高音までの組み合わせによるシンフォニーが既に鳴っている。時と場所や大気の環境・条件によって瞬時に変わって響かせているが、基本的には海底から高空まで揺らぎながらも音に埋まった壁のようなクラスター(房)に包まれ響かせているのだ。

 宇宙の場面の映像を効果音で聞かされることがある。ピュンピュン飛び交う音や、キィウ〜インとした高音が多いが、みんなウソである。空気の無いところでは音波は伝わらないからだ。無音ということだ。

 作曲という行為は、その大気の一部を切り取って人びとと共有することである。基はゆったりとした大気のながれのなかの音と触れることだが、それを瞬時に選び、選んだ人が音を組み合わせることにより、我々の耳に聴けるようにしていることをいう。だから切り取り組み合わせた人が、再度大気に呼び掛けると、一人の声でも、楽器でも、百人から千人の交響楽団の楽曲でも、自然のなかに解き放たれて一体化した瞬間を味わうことができるのだ。ここでは原理を言っているのであって、質の善し悪しやオリジナルを問うているわけではない。ロックバンドの音楽やオルガンなどの器楽曲、合唱から民族音楽など、人びとの好みや包まれ方は様ざまだが、人それぞれの自然との一体感の基は同じで、人びとは大気の揺らぎのなかで至福を感じるのである。

 拙作の混声合唱曲に、団員が三々五々ステージに集まって来て「大気のヘソを押す」行為から、それに短音の声を加え、次第に音が混じり合ってシンフォニーをつくっていく音楽があった。それは名演で、私は感激したが、誰もいいとは言わなかった。もう再演されることは無いだろうが、私は自然の中で常に自在な響きが生み出されているのを聴いている。