昔ほどではなくなったが、学校の音楽クラブで今でも良く見かける光景がある。合唱クラブにもあるが、ブラスバンドの練習風景に多い・・・指導者登場の「起立・礼」から始まり、小気味好い体育会系の応答。そして演奏に。次第に出てくる指導者の注文。今の音は何だ!心がこもってない!もっと歌うように弾け。返事(の声)が小さい!「ハイ!」。どうしたら心がこもった演奏になるか、どう歌うのがいいのか技術的な説明がない。「気合いを入れている」と豪語するひともいれば、ペナルティーで「グランド1周(10周)」、ウサギ飛び何回か、なんて体罰まであった。

 ピッチから、合わせるポイントから、響きあう術から決めていく。機械とニラメッコし、先輩の顔色を伺う、仲間に嫌われないいい子になって、その間隙(感激求めて)をぬって「でも綺麗になりたい」想いで一杯になる。結果、「あなたがたが他の人びとより美しかったわよ<金!>」と言われて狂喜する。

 ここにコミュニティがあり、人格が磨かれていくスペースにもなっている。そしてここでの揺籃期が日本の音楽文化を支えていく現実もある。素晴らしくリアリティのある感動を伴う活動だが、音楽はワクにはまらない危ない創造性を見失うことがある。精神論、根性論も必要だろうが、論理的に説明できるところと、理屈を超えた領域に自己の可能性があって、それらとの共有がいつも問われていると私は思っている。