Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

投稿者: Katsuhiro Tsubonou (Page 12 of 15)

ピアノでワークショップ

 ピアノで音楽ワークショップを展開するのは、なかなか難しい。ピアノがあれば音楽の様々なニーズへの応えや表現が可能になる。しかし楽器を動かせない、参加者の音楽での反応や顔が見えづらいことが問題になる。音楽を聴かせる、歌の伴奏をする時には威力を発揮するが、音楽づくりなどには余程工夫をしないと参加者のサポートに向かないことが多い。

 十年程前に北九州の文化施設を私はフラリと訪れたことがあった。そこで子どもと音楽家がワークショップを楽しんでいるスペースに遭遇した。アップライト・ピアノを壁側に向かって弾きながら、子どもの歩みで音楽を感じるあそびで湧いていた。簡単なバンプ(ブンチャ、ブンチャというリズム)を弾いているのだが「何という音楽だ」と感動するほど素晴らしく我が耳を疑った。私はその時知らなかったが「佐山雅弘」というジャズピアニストとその仲間による、子どもたちとの音楽ワークショップ企画だった。

 佐山さんは18年秋に亡くなられた。でも私はその時の出逢い以降、彼の音楽を聴きまくっていた。寺井尚子さんのジャズヴァイオリンとの協演や彼のピアノトリオに感動し、分かりやすくクラシック音楽をも包括するクリアな演奏とケレン味のないヴィルトオーゾは特筆だと思っていた。音楽の実力は、ライブやCD・DVDだけでなく、子どもとのコラボの瞬間に輝くのだと今でも思っている。

録音の妙

 同じ楽器編成。ここでは3〜4名の楽器アンサンブル。同じ場所で同じマイクを立てて、同じ条件での録音を順番に三人が挑戦した・・・録音した音楽を聴いてみた。これが三者三様で全然違った音楽録音になっていた。
 エコーやフィルターなどのお化粧をしないスッピンのママの音楽だが、録音した人の個性がしっかり残っていた。ひとりはシャリシャリした少しやせた音になり、もう一人はアンサンブルを生で聴いたママの響きがして、最後の人は高音や低音がふんわり伸びて行く感じで録音されていた。
 基は顔の輪郭だ。いくら化粧をしても輪郭は変わらない。三者はそれぞれプロだから、後は企画や作曲などの制作者や聴き手の好みとなる。

 私たちが携帯の簡易録音機材で同じ素材を録音しても、微妙に違って録れている。録る人の目(心)が何処にあるかで、変わってくるようだ。
 今までで一番驚いた録音は、フランス国籍(現・日本在住)のプロデューサーが「秩父夜祭」を録音して、日本の文化をヨーロッパの放送局で発表した作品を聴いた時だった・・・普通日本人が見聞する音ではない、竹が山車の車と軋み合った音の上で屋台囃子が鳴っている音風景だった。

 私の録音時のリズム隊はドラムスのキック(バスドラ)のつくりで決まった。録音技師の腕が一番だが、キックを固めの音につくり、それに太鼓類を順次重ね、ベースと合わせ、ギター・ピアノと加えて行くサウンドづくりだった。

楽器開発③

 電子計算機や電子時計の一流会社、 C社が極秘に楽器を開発していた。何が新しくて、いい音なのか、という楽器製作者と私の闘いは、1980年の新楽器の発表まで続いた。音だけでなく「鍵盤楽器は鍵盤だけの平らな一枚でいい」という意見も私は持っていた。「入れ歯」を平にしたイメージの楽器だと、それを縦に積み上げたシンセサイザーになって使いやすいと思っていた。同時多発のようなアイディアは80年のカナダの楽器ショーで現実のものとなった。

 計算機や時計の製造販売会社が楽器を開発・発売を今後展開するには、「音大卒業生で優秀な人材が必要だ」ということになった。そこで「各大学の先生に優秀な師弟を紹介して欲しい」ということになったが、内容が秘密なのでどんな仕事が計算機や時計と音大生が結び付くのか説明が付かなくて困った事があった。
 もう一つ。秘密の役は、業績として表に出ない「裏方」の仕事で、口が堅くて呼ばれた仕事は、この仕事に限らず誰からも評価されないまま時間が過ぎて行った。

楽器開発②

 いい音、いい声は、波形の基音が明確だ。基音とそこからの倍音の組み合わせが個性を決めている。しかしそのいい音を集めたり重ねたりしても、音の豊穣さにつながらない。個性の無い音の束は単一色でしかない。

 個人でもアンサンブルする人びとでも、同じいい音(声)を持った人びとの団体は無個性になることが良くある。音や楽器の個性はノイズのような、ちょっと「困ったちゃん」の活躍が面白くさせてくれている。それは楽器だけでなく、他の分野でも共通する秘密のようだ。困ったちゃんを生かした仲間が新しい世界を創出できるということだ。だから困ったちゃんは堂々としていていい。

 同一色で透明な声を響かせる音楽も素晴らしい。芯のある音や声の仲間に、ダミ声やハスキーな声が入り、解け合い響き合っている団体の音楽はシンセサイズされた現代の響きになるようだ。
 「この音はいい音ではないのか?」という楽器開発での論議と評価には、常にその塩梅が必要とされるのだ。

楽器開発①

 いい音、面白い音、新しい音は必ずしも一致していない。しかし新しい電子楽器をつくるには、それらの課題をクリアさせる必要がある。
 電子キーボードは電子回路を使ったシンセサイズ(合成音)で出来ている。その回路づくりに各社の秘密がある。既成の電子オルガンもシンセサイザーと同じで、常に新しい素材の組み合わせで音が生み出されている。

 試作段階では必ず一つの音が「何故いい音ではないのだ」、という議論が技術者どうしで問題にされる。既成のアナログ楽器に似ていれば「いい音」だとも言える。しかしアナログ楽器にない、いい音の判定は難しい。既成楽器にない音だから面白い合成音としてユーザーに支持されることもある。楽音に無い変わった音は人の感性に支持されるか微妙な問題が残る。

 【サンプリング】という技術がある。ピアノやヴァイオリンの名器の音を記録し、鍵盤上に再構築する術だ。それは名器と区別が付かないほど優れた音に再生可能だ。そこに個性や新しさが何処まであるかは別問題だ。
 友人にオナラをサンプリングした人がいた。それでベートーヴェンの「運命」や「ぞうさん」を弾くと、それはそれで面白いが、その面白さは何にでも使えるかというと難しい問題になる。新しい音といっても、楽曲とのマッチングで生かされないと使われないことになる。

 楽音の原理は、純音・平形・矩形・鋸歯状波などの組み合わせだが、その塩梅具合なども製品の個性になる。新しくていい音の創造は簡単ではない。それぞれの波形を持った音が同時に響き合う組み合わせは、オーケストラやパイプオルガンと同じで、それらの波動がシンセサイズされた世界に人びとを誘わせてくれることになる。

フラッシュモブ

 音楽がメインのイベントに絞っての話題・・・もう十数年前から町なかで突然音楽の演奏に出逢う機会が生まれた。公共の広場で、大通りで、アーケードで、一人が音を出すと次第に人びとが楽器を持って集まり音楽が始まり、例えばラストは合唱も加わってベートーヴェンの「第九」になる、というイベントだ。

 ここには重要な二つの異なる世界がある。
 一つは、音楽の始原の素晴らしさだ。一人の行為が人びとの共感を呼び、多くの人びとと輪をつくり一体化し、世界を共有する。何と素晴らしいことか。
 もう一つは、「第九」を例にとってもいいが、指揮者が出て来て広場がステージになってしまう「企画」(事業)。結局は演じる側と聴く側を分けて、誰かが音頭をとってまとめたことになる。アンサンブルは聴き合い、息を合わせて表現するものだが、結局はステージの野外版で、意外性や出前のサービスを除くと、二回目からは驚きもなく、広場の人びとはイベント自体の賛否に分かれるかもしれない。

 1970年前後は、前衛音楽の宝庫だったと思われる。偶然性や音楽の限界を問いながら表現していた人びとが多かった・・・70年、私たちの仲間は学生食堂に散らばって座り、時間と共に自分たちで決めたリズムや音程で一つのフレーズを繰り返しながらアンサンブル。そして規定時間を使い果たすと退席する、という音楽を発表した。人数は十人ほどで、楽器は固めの「センベイ」で演奏(かじる)・・・其処彼処で「パリッ」「カキッ」。そのうちに食堂中がバリバリ、ボリボリ、パリパリ。騒音に聞こえた人びとと、センベイの強烈なニオイで、食堂のおばさんたちに追い出されたが、参加者と一部の聴いた人は満足感で満腹になった。

大気を切り取る

 大自然は超低音から超高音までの組み合わせによるシンフォニーが既に鳴っている。時と場所や大気の環境・条件によって瞬時に変わって響かせているが、基本的には海底から高空まで揺らぎながらも音に埋まった壁のようなクラスター(房)に包まれ響かせているのだ。

 宇宙の場面の映像を効果音で聞かされることがある。ピュンピュン飛び交う音や、キィウ〜インとした高音が多いが、みんなウソである。空気の無いところでは音波は伝わらないからだ。無音ということだ。

 作曲という行為は、その大気の一部を切り取って人びとと共有することである。基はゆったりとした大気のながれのなかの音と触れることだが、それを瞬時に選び、選んだ人が音を組み合わせることにより、我々の耳に聴けるようにしていることをいう。だから切り取り組み合わせた人が、再度大気に呼び掛けると、一人の声でも、楽器でも、百人から千人の交響楽団の楽曲でも、自然のなかに解き放たれて一体化した瞬間を味わうことができるのだ。ここでは原理を言っているのであって、質の善し悪しやオリジナルを問うているわけではない。ロックバンドの音楽やオルガンなどの器楽曲、合唱から民族音楽など、人びとの好みや包まれ方は様ざまだが、人それぞれの自然との一体感の基は同じで、人びとは大気の揺らぎのなかで至福を感じるのである。

 拙作の混声合唱曲に、団員が三々五々ステージに集まって来て「大気のヘソを押す」行為から、それに短音の声を加え、次第に音が混じり合ってシンフォニーをつくっていく音楽があった。それは名演で、私は感激したが、誰もいいとは言わなかった。もう再演されることは無いだろうが、私は自然の中で常に自在な響きが生み出されているのを聴いている。

「百姓っぺ」の文化芸術

 「百姓っぺ(ひゃくしょうっぺ)」とさげすまされることが、子どもの頃イヤだった。確かに酪農家のように、牛や鶏から、穀物、野菜と、自給自足に加え生産物を売って生活していた。だから私は子ども時代から農家の手伝いは何でもしていた。土を耕し、タネを蒔き、自然や動植物の畏れや感謝と共に暮らしていた。
 経理の専門家で公務員夫婦が戦後、土も触ったことが無いのに突然原野を開拓して百姓になった。しかし地元の子どもと何としても仲良くなれず、からかわれることが苦痛だった。ホワイトカラーの家族にあこがれていた。

 音楽を突然始めた。それも「つくる」ことを選んだ。その後音楽のプロデュースや文化事業の仕事にも従事させていただいて、みんなでつくることも実行して来た。世界の文化財、一流芸術や優れた人びとの智恵に少しでも触れることは素晴らしいことだと思っているが、基本は自分たちでタネを蒔き、育て、その価値観と他の異なる価値観の交換から全ては始まる、ということではないかと思ってきた。でもその「耕すこと」ってカルチャーの基本ですよね。ということは、私は本格的な百姓をず〜ッと続けてきたということになる。

 ドン百姓、という言葉もある。江戸時代ではないのだ。今ではドンと太鼓で打ち上げて貰えるような最高の褒め言葉のように思えるのだ。故に私は「百姓ッペ」と呼ばれた方が晴れがましく自然なような気がしている。

Simple is the best

 ベートーヴェンの「第九」。一楽章から三楽章まで優れた音楽が展開していく。そして第四楽章で、それまでの音楽を否定して「この音楽がいい」と低弦(コントラバス)で歌い始め、全奏者で謳歌し、それをソロと合唱で拡げて行く。
実にシンプルなメロディーで、誰もが一度で覚えて歌えるメロディーである。

「上を向いて歩こう」という歌が全米でも大ヒットしたことがあり、現代でも名曲として多くの人びとに歌い継がれている。ジャズをピアノで弾いても凄腕の作曲家・故中村八大氏の作曲だったが、何てシンプルなメロディーだろう。初めて聴いた時、私は何故か生意気にも「やられた」と思った。

 最近のポップスで複雑に聞こえる歌でも、実にシンプルなフレーズの繰り返しをしている歌が多い。そのシンプルな素材は、しかしどれも同じでなく差異性があるから新しい世界を聴かせて貰うことができる。その新しさをシンプルに受け止めて人びとは歌いつないで行く。

 シンプルな素材は可能性をふくらませて幾らでも複雑にすることはできるが、複雑な素材はシンプルにすることは難しい。
 古今東西のクラシックの名曲の多くは、シンプルなテーマの組み立てが多い。民族音楽でも同じようなことが言える。
  Simple is the best だと思う。

宇宙からの電子音楽

 「コスモス200」という電子音楽を創ったことがあった。それはNHKの放送技術と野辺山電波観測所のご協力で、 84年に NHKで製作し放送初演された。
 
 音源はホワイトノイズを切り貼りして組み合わせだけでした。シンセサイザーの鍵盤で創った音とはかなり違っている。音楽の内容は、星空を夕方から翌日の明け方までの12時間に固定した窓枠から見える星たちをそのママ音で一つ一つ再現し、満天の星が輝いた世界を表現したものでした。
 星には地球からの距離や星自体の温度などそれぞれに個性があり、その星たちのデータを数値化した資料から蘇らせたものでした。
 各星は自転で発するパルサーが異なり、近くの星は ブルルルル、とオートバイのような音になり、遠くの星はチコン チコン と間遠になり、様々な音が響き合っていました。

 80年代の後半から十年程、小学1年生の音楽の教科書(教育芸術社)に「星の音楽を聴いてみよう」という副教材として載っていました。それを教室でレコード鑑賞された子どもさんも極少ないけどいたはずです。もう社会に出て中堅の輝かしいお仕事をされている歳でしょう。その音楽を覚えていたら、その時の感想を聞いてみたいものです。

 原盤は NHKで、その保管はレコード会社に依頼しましたが、その後行方不明になってしまい、現在では幻の音源と言われています。唯一教科書に準拠したハイライト版の原盤が残っていて、それで原作の壮大な星たちの歌声の一部をかろうじて聴くことができるのです。

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