Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

カテゴリー: 音楽会評論 / CONCERT-CRITICISM (Page 1 of 2)

トゥーランガリラ交響曲

 アンサンブル《ヴェネラ》というアマチュア・オーケストラをご存知でしょうか?

 2014年に都内のアマチュア・オーケストラ奏者を中心に結成された演奏団体で、現代音楽作品を採り上げたプログラムで活躍している(ということを、今回私は初めて知った)。

 20世紀の名曲、  O・メシアンの「トゥーランガリア交響曲」を演奏するというので聴きに行った。アマチュアが80分に及ぶ大作・難曲を演奏するなんて、私の若い頃には想像もできなかった話だから、成果に対する期待は半信半疑だった。

 結論から言うと、凄まじい世界を展開させていた。プロとアマの差は何処にあるのか分からないほど、水準の高い演奏にまとめ上げていた。演奏者が音楽を分かって演奏していて、日本の音楽文化水準の高さを自慢する成果だったと思った。

 メシアンの孫弟子にあたる夏田昌和の指揮、ピアノの大須賀かおり、オンド・マルトノの大矢素子の演奏も素晴らしく、私にとっては、近年最高の名演のひとつとだと思った。

音噺(おとはなし)

 この頃、アマチュア文化団体の助成事業審査に加わっていることもあり、時間があると全国どこの街のどんな小さな公演にも伺っている。予想もしない、面白い公演に出会うことがあるからだ。

 「音噺ナイチンゲール」という朗読とフルートの会に伺った。アンゼルセンの童話「夜鳴きうぐいす」の朗読に、クラシック音楽の名曲から、物語の  BGM(バックグランドミュージック)として、フルート用に編曲した演奏が加わり、童話の世界を拡げて行った。
語りの杉村理加という人の朗読が面白かった。七色の声で表現するワ、リコーダーを吹くワ、大きな声で歌うワなど、表現域の広さに驚いてしまった。
フルートの古川仁美は普段室内楽のアンサンブル活動をしているようだったが、朗読との息の合わせ方は、二人の表現を広げて行く魔術のようだった。

 この催しは、中野・江古田の森「えごたいえ」の喫茶などがあるスペースの一角に作られた舞台で、近所のお年寄りなど数十名しか椅子に座っていなかったのが、勿体無いくもあり、残念だった。機会があったら二人の世界にもっと多くの人びとが触れてみて欲しいと思った。

ワールド コラボレーション コンサートIIIのお礼

 9日(月・祭)午後に東京・紀尾井ホールで開催された演奏会は、多数のお客様・各国大使館諸氏、多くの小学生をお迎えして開催し、無事盛会の内に終了しました。3月5日の東京タワーでは、その抜粋と、主催者公募のよる歌の作品&歌を元にした動画作品の発表も行います。

 世界各国の伝統芸術だけでなく、伝統音楽の核になっている要素(モードなど)を応用して、日本や各国の伝統楽器を駆使して新作をつくり、発表し合う「協創(クリエイティブ コラボレーション)」作品の初演も多数披露されました。また私も演奏会前にロビーで音楽のワークショップを子どもさんたちと楽しみました。
 本企画は演奏家諸氏のご努力と、それを支えてくださった皆様のお陰です。ありがとうございました。
 来年3月10日に紀尾井ホールで第四回を予定していますが、何時の時代もこのような新しい企画の継続は大変です。今後も皆様のご支援をお願い申し上げますと共に、第三回演奏会のご報告をここにさせていただきました。

現代音楽の名曲新釈 ②

 故・矢代先生とは東京文化会館の階段でお逢いしたのが強烈な印象を持っていた・・・「あなたの音楽を私は支持します」と真剣な顔で仰ってくださったが、直ぐ後で亡くなられてしまった。
 反対に、雪の降る有楽町の街角で私と言い争いをした作曲家の先生がおられた。「キミ、音楽は結局メロディーだよ」という意見に、私は一面的なコンセプトに反対意見の喧嘩を売った論争だった。
 コンテンポラリーの発想では、メロディーそのものも従来とは違う切り口を若い人びとは求めていたからだ。
 でもその人「松村禎三」は名曲を数多く残しているが、「ピアノ協奏曲」(1番と2番がある)のドローンには参ってしまった。ドローン<低音の持続音>の上ではピアノだけでなく、オケの様々な楽器がつむぎ合って歌を広げていく。
これまた誰にでも分かりやすいし、民族音楽にもあるように音楽の基を成しているし、既に教材化されているほどのスタンダードな構造なのだ。これは子どもにも理解できるし、この曲を参考に「音楽づくり」も可能なのだ。凄いと思った。
 なかなか再演されることが少ないが、でもこの曲は何時迄も人びとに松村先生の信じるメロディーの基が紡ぎ出されていくように思った。

現代音楽の名曲新釈 ①

 20世紀後半、日本の現代音楽作品はかつてないほどの名作が生まれていた。日本の天才作曲家諸氏が珠玉の名作を生み出した時代だといえる。
 海外で高評価された作曲家作品は、私たちも良く知っている。歴史に残る名作の数々に圧倒されている。一方、海外のオーケストラ公演でも紹介されたが、あまり評価されていない作品も多かった。ヨーロッパの伝統的な様式に則った作品など、欧米の専門家諸氏から失笑されたりした。

 矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」の第二楽章についてお話しする。ドレミのドの音のリズムパターン(オスティナート)が繰り返されるなか、弦が緩やかな歌を浮かび上がらせていく。子どもの頃に眠っていてウナされた響が元になっているそうだ。エピソードはともかく、誰にでも分かりやすく、イメージも人それぞれに掴みやすい。その分かりやすさというのが大きな魅力だ。それがあると、第一楽章や第二楽章も理解されやすくなる。子どもなど、こんなエッセンスから自分の世界に矢代作品を迎え入れてしまうような気がする。

 日本のあるオーケストラによる海外公演では、散々だったようだ。国際的に活躍していた共演のピアニストには「何でこんな曲に入れあげた演奏をするんだ」とまで言われたそうだ。
 でも時間が経つと、多数の聴衆がイメージを膨らませて、作品の優れた世界を敬愛して行くような気がしている。

子どもの企画 ②

 邦楽器のアンサンブルと、ミュージカル、物語が加わったステージを時々拝見することがあった。企画・制作・演出に、出演者の誰もが「子どものために」一生懸命な成果を披露している。

 その大人たちだって子ども時代があったはずだから、子どもが何を理解して、楽しみにするかは承知のはずだ。

 ところがステージをつくる大人たちは、子ども時代を、子どもの感性を忘れたような、自分たちが信じる「優れた芸術を提供」していると思われる上から目線のプログラムになっていることが多く、今更ながら驚かされてしまう。

 邦楽の場合、どこまでもお師匠さんと弟子であって、音楽を楽しむ友だちではないのが不思議だ。そして「いいことをしている」という自負心が残るから、この種のプログラムは半世紀も進歩がない。

 方楽器の演奏に合わせてダンスとミュージカルの歌声やセリフなど、異種格闘技のようなステージが悪いのではない。いいものを集めたらいいものになるという安易な制作が問題なのだ。こどもがふくらませる世界と遊離していることへのチェックがないことが問題なのだ。そしてこの感覚はまだまだ続いていく。

子どもの企画 ①

 音楽会場で子どもの音楽企画を私が鑑賞する時には、必ず見聞する位置がある。招待席のような正面ではない。前の方の両サイドか、二階以上の席でも(あれば)サイドの席だ。どちらかというと安い席かもしれない。横から後方の席が無理なく見渡せる席がいい。理由は子どもの反応や顔が見えるからだ。

 演奏会や演目によっては、子供が身じろぎもしないで、まるで魂を奪われたように見聞きている演奏会もある。バレエなどでも、友だちが出ていたりすると、身近に感じて楽しんでいるようにもなる。楽しいと、またウケたりすると、ワッと湧き上がり、頭が左右に動く。隣に座っている親の顔や、他の仲間(子どもたち)の反応も気になるが、何よりもステージと一帯になっているからだ。

 いかに子どもの企画だといっても、飽きるとすぐに頭がグラグラ揺れ動くようになる。落ち着かない仕草が出ると、ステージとの接点は希薄になる。必ず親がお行儀を理由に説得する光景が出てくるからすぐに分かる。

一音曼荼羅

 演奏会で、楽器を持参した演奏者が登場する。ルーティンでチューニングの意味も含めて音を一つ二つ出すことがある。実はその一つの音で次に表現される全ての世界が予告されている。
 一節(ワン・フレーズ)演奏する。冒頭の音よりも、フレーズの尻で技量が分かる。コンクールだとそれで本当は点が出ていることがある。

 音そのものの優れた世界や、フレーズの歌い方一つでその演奏者の技量が出ている。テストで(観客の後ろを向いて)音を試演しても、本番以上の世界が既に語られている。演奏する前の佇まいで音楽曼荼羅が聞こえているわけだ。だから序の段階で、熱してクライマックスに達する前に、勝負あったということになる。ステージの上では全てがアートなのだということだ。

シューベルトのピアノ・コンチェルト

 シューベルトにピアノ・コンチェルトは無い。ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調のピアノとオーケストラのための演奏用バージョンのことで、この度「吉松 隆」氏の編曲で初演された。

 シューベルトの晩年の最後の作品で、ピアノの原曲だけでも名曲の価値はある。それにオーケストラが加わると、蛇足に思えないか心配でもあり興味津々で聴きに行った。

 白黒の写真がフッと色彩を帯びるように、ピアノがオーケストラの響きの中に溶け込むように空間を包んでいく。余計な手を書き加えていない。作品に畏敬の念が込められた祈りがピアノを包んでいく。

 通常の二管に弦楽とティンパニが加わる編成だが、そこにグロッケンシュピールが加えられていた。普通ではありえない編入だが、実に効果的な世界を生み出していた。この後に続くロマン派の世界を呼び込むようでもあり、チェレスタの活躍を予言するようなスペースを感じさせていた。編曲したシンフォニー作家の吉松氏の美事な宇宙が拡げられて行った。

 テーマを基にしたピアノとオーケストラの歌い合いも自然で心地よい世界への誘いを感じたが、元々ピアノとオーケストラの協奏を書いた作品では無いために、オーケストラの活躍は控えめになってしまっていた。しかし、ラベルが「展覧会の絵」を書いたような域にもあるようで、これは色々なピアニストやオーケストラが採り上げていただくと楽しいと思った。

 田部恭子のピアノは素晴らしかった。藤岡幸夫指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団が熱演。2022年1月29日・ティアラこうとう 大ホール

音楽と落語

 音楽とコラボレーションする企画は、今始まったわけではない。 ダンスやドラマでも自然なコラボレーションになっている。

 落語とコラボレーションする企画がある。最初は異質なようで戸惑った人もいただろう。落語はひとりで表現する語りの世界で、そこに音も伴っているかからだ。音楽も芸人の仕草で感じる、と言われても不思議でない総合芸術でもある。

 そこにジャズとのセッションや打楽器や室内楽の人びとが加わると舞台芸術が変わって見えてくる。

 即興で落語と対峙するひともいれば、演目に会わせて五線紙に書き込んで合わせて表現するひとたちもいる。書いて事前に用意してあると、それはドラマの「劇判」と同じで、背景や感情をデフォルメすることになる。何の不自然もスリルもないコラボレーションだ。

 即興で対応するひとのなかには、お互いに息を合わせて、或いは様子を見ながら合わせていくこともある。みんな優しい思いやりがあっていいのだろう。

 劇判になるなら音楽をステージで一緒に演ずる必要は無いだろう。そして即興なら、話芸に切り込んで対話できる鋭さがあった方が面白いだろう。同じ舞台芸術でも「異種格闘伎」は、あそびとは違う創造と破壊があっていい。様子を見ながらのごまかしはお互いの芸術が停滞してしまうだろう、と私は思ってきた。ところが私の考えが吹き飛ぶように、お客さんは喜んで満足して帰る人が多いようだ。社会には新たな領域の「音楽落語」が浸透しているのかもしれない。

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