Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

カテゴリー: 音楽の仕組み・構造 / MUSIC-STRUCTURE (Page 1 of 2)

倍音を聴く

 自然界は極低音の上で、倍音が整然と、またはぶつかり合いながら響合っている。
 都会の音は、低音からしてぶつかり合っているので、倍音が身体に刺さるような暴力と化している。高速道路、工事現場、ビルや家庭から出る音が、複雑に絡み合っていて、人の全身に襲い掛かっている。よく市民が病気にならないと私は感心している。海や山のあるところに行くと、大地の底から支えている極低音の上で純正を基にした自然倍音が透明感を持って響き合っている。だから身体が音の綿に包まれたような心地良さを感じて心まで休まる。

 音楽は倍音の積み重ねの変化で、ひとは意識をしなくてもそれに包まれていることにより心地よさを知っている。雅楽も倍音の響きの中でメロディーが浮かび上がるようになっている。人数の多い声明では、ぶつかり合った音たちが、天空で絡み合って時々光明がさすように響き渡る。

 拙作では、自然であり私が望んだ倍音によって望まれる響きや歌が生まれる仕掛けが多い。録音すると消えてしまう音もあるので、生の演奏がいいに決まっているが、それでも断片的に聞こえることもあるので紹介させていただく。
 とにかく Webで公開してくださるという友人の作曲家が採用してくださったが、タイトルが検索に引っ掛かりづらく、何年経っても訪問いただけないのが残念だった。

 宮本妥子さんのヴィブラフォーンによる「Celestial- Vib」(天空の響)がそれである。

ホーミー・倍音

 30数年前、日本でそんなに歌唱出来る人がいない頃、私はモンゴルの民族歌唱「ホーミー」を学んで歌えるようになっていた。
 低音(ドローン)を口から響かせ、その上に倍音で異なる声部のメロディーを重ねる唱法だ。その響かせる身体のポイントは頭部や胸部など数カ所あるが、技術はともかく大草原の彼方と調和する素晴らしい歌唱になっていて、複数の同時歌唱を楽しんでいた。

 その倍音は「声明」にもある。お坊さんの集団音楽的読経だ。普通聴いていると経には違いないが、喉を絞って出す声には倍音が生まれていて、ホーミーのように高いところで別の音(歌)が生み出されてぶつかり合っていることに気付かされる。
 その倍音が私たちにはありがたいほど安らかな世界に誘ってくれるようだ。雅楽でいうと笙のような、空間を埋めながら、倍音から生まれた歌が空間の中で際立つように縁取って行く。可聴範囲を超えた倍音の重なり合いが、私たちを未知の音楽空間に誘ってくれているようだ。
 
 身近な例で善し悪しは別として倍音の多い音楽会の例を記して見る。それはヘタな合唱団、アマチュアのブラスバンドやオーケストラなどだ。つまりピッチが合わないところで音がぶつかり、倍音が多数出てしまう演奏がいいのだ。しかし基の響きが不安定な時は倍音で生まれる音の像が聞こえづらいかもしれない。

神経衰弱

 現代音楽の殆どは、テーマと変奏だ。同じ手の繰り返しでなく、一つのことをあの手この手で展開させていく。頭で組み立てた構造は、変容の限界を超えて拡がって行く。基がどうであったか思い出しては理解を先に進めるのは、個人の耳では神経衰弱でトランプをめくる思いと同じだ。

 サウンドやメロディー・リズムという概念が新しい、とこれまでとの差異性をアピールしているが、その殆どは過去の焼き直しである。新しく見せかけているのだが、そこに価値が無いとは言わないが、古すぎる新作が多いものだ。

 過去の作品を知らないのではないかと疑ってしまう新作もある。この頃はコンピューターを駆使した作品も多くなった。リアルタイムで生の演奏との即興も可能になったし、他の分野とのコラボ(舞踏や絵画など)も目新しく移るが、1950〜60年代の日本の先輩諸氏の作品に初出されていたりしている。
 それらと重ね合わせて評価することは、これまた神経衰弱に似ている。

 感性の限界、という意味もある。理詰めの音楽の面白さもある。ただ、どうあがいても構造を変えることは出来なかったようだ。また複雑になればなるほど、創作にも演奏にも、理解にも「即興」の領域が少なくなっていった。音楽の基にはそのあそびが残っていないと、誰も興味を示さなくなっていく。面白い神経衰弱が見つかれば、様々な参加が期待出来ると思われるのだが・・・

楽器開発③

 電子計算機や電子時計の一流会社、 C社が極秘に楽器を開発していた。何が新しくて、いい音なのか、という楽器製作者と私の闘いは、1980年の新楽器の発表まで続いた。音だけでなく「鍵盤楽器は鍵盤だけの平らな一枚でいい」という意見も私は持っていた。「入れ歯」を平にしたイメージの楽器だと、それを縦に積み上げたシンセサイザーになって使いやすいと思っていた。同時多発のようなアイディアは80年のカナダの楽器ショーで現実のものとなった。

 計算機や時計の製造販売会社が楽器を開発・発売を今後展開するには、「音大卒業生で優秀な人材が必要だ」ということになった。そこで「各大学の先生に優秀な師弟を紹介して欲しい」ということになったが、内容が秘密なのでどんな仕事が計算機や時計と音大生が結び付くのか説明が付かなくて困った事があった。
 もう一つ。秘密の役は、業績として表に出ない「裏方」の仕事で、口が堅くて呼ばれた仕事は、この仕事に限らず誰からも評価されないまま時間が過ぎて行った。

楽器開発②

 いい音、いい声は、波形の基音が明確だ。基音とそこからの倍音の組み合わせが個性を決めている。しかしそのいい音を集めたり重ねたりしても、音の豊穣さにつながらない。個性の無い音の束は単一色でしかない。

 個人でもアンサンブルする人びとでも、同じいい音(声)を持った人びとの団体は無個性になることが良くある。音や楽器の個性はノイズのような、ちょっと「困ったちゃん」の活躍が面白くさせてくれている。それは楽器だけでなく、他の分野でも共通する秘密のようだ。困ったちゃんを生かした仲間が新しい世界を創出できるということだ。だから困ったちゃんは堂々としていていい。

 同一色で透明な声を響かせる音楽も素晴らしい。芯のある音や声の仲間に、ダミ声やハスキーな声が入り、解け合い響き合っている団体の音楽はシンセサイズされた現代の響きになるようだ。
 「この音はいい音ではないのか?」という楽器開発での論議と評価には、常にその塩梅が必要とされるのだ。

楽器開発①

 いい音、面白い音、新しい音は必ずしも一致していない。しかし新しい電子楽器をつくるには、それらの課題をクリアさせる必要がある。
 電子キーボードは電子回路を使ったシンセサイズ(合成音)で出来ている。その回路づくりに各社の秘密がある。既成の電子オルガンもシンセサイザーと同じで、常に新しい素材の組み合わせで音が生み出されている。

 試作段階では必ず一つの音が「何故いい音ではないのだ」、という議論が技術者どうしで問題にされる。既成のアナログ楽器に似ていれば「いい音」だとも言える。しかしアナログ楽器にない、いい音の判定は難しい。既成楽器にない音だから面白い合成音としてユーザーに支持されることもある。楽音に無い変わった音は人の感性に支持されるか微妙な問題が残る。

 【サンプリング】という技術がある。ピアノやヴァイオリンの名器の音を記録し、鍵盤上に再構築する術だ。それは名器と区別が付かないほど優れた音に再生可能だ。そこに個性や新しさが何処まであるかは別問題だ。
 友人にオナラをサンプリングした人がいた。それでベートーヴェンの「運命」や「ぞうさん」を弾くと、それはそれで面白いが、その面白さは何にでも使えるかというと難しい問題になる。新しい音といっても、楽曲とのマッチングで生かされないと使われないことになる。

 楽音の原理は、純音・平形・矩形・鋸歯状波などの組み合わせだが、その塩梅具合なども製品の個性になる。新しくていい音の創造は簡単ではない。それぞれの波形を持った音が同時に響き合う組み合わせは、オーケストラやパイプオルガンと同じで、それらの波動がシンセサイズされた世界に人びとを誘わせてくれることになる。

大気を切り取る

 大自然は超低音から超高音までの組み合わせによるシンフォニーが既に鳴っている。時と場所や大気の環境・条件によって瞬時に変わって響かせているが、基本的には海底から高空まで揺らぎながらも音に埋まった壁のようなクラスター(房)に包まれ響かせているのだ。

 宇宙の場面の映像を効果音で聞かされることがある。ピュンピュン飛び交う音や、キィウ〜インとした高音が多いが、みんなウソである。空気の無いところでは音波は伝わらないからだ。無音ということだ。

 作曲という行為は、その大気の一部を切り取って人びとと共有することである。基はゆったりとした大気のながれのなかの音と触れることだが、それを瞬時に選び、選んだ人が音を組み合わせることにより、我々の耳に聴けるようにしていることをいう。だから切り取り組み合わせた人が、再度大気に呼び掛けると、一人の声でも、楽器でも、百人から千人の交響楽団の楽曲でも、自然のなかに解き放たれて一体化した瞬間を味わうことができるのだ。ここでは原理を言っているのであって、質の善し悪しやオリジナルを問うているわけではない。ロックバンドの音楽やオルガンなどの器楽曲、合唱から民族音楽など、人びとの好みや包まれ方は様ざまだが、人それぞれの自然との一体感の基は同じで、人びとは大気の揺らぎのなかで至福を感じるのである。

 拙作の混声合唱曲に、団員が三々五々ステージに集まって来て「大気のヘソを押す」行為から、それに短音の声を加え、次第に音が混じり合ってシンフォニーをつくっていく音楽があった。それは名演で、私は感激したが、誰もいいとは言わなかった。もう再演されることは無いだろうが、私は自然の中で常に自在な響きが生み出されているのを聴いている。

Simple is the best

 ベートーヴェンの「第九」。一楽章から三楽章まで優れた音楽が展開していく。そして第四楽章で、それまでの音楽を否定して「この音楽がいい」と低弦(コントラバス)で歌い始め、全奏者で謳歌し、それをソロと合唱で拡げて行く。
実にシンプルなメロディーで、誰もが一度で覚えて歌えるメロディーである。

「上を向いて歩こう」という歌が全米でも大ヒットしたことがあり、現代でも名曲として多くの人びとに歌い継がれている。ジャズをピアノで弾いても凄腕の作曲家・故中村八大氏の作曲だったが、何てシンプルなメロディーだろう。初めて聴いた時、私は何故か生意気にも「やられた」と思った。

 最近のポップスで複雑に聞こえる歌でも、実にシンプルなフレーズの繰り返しをしている歌が多い。そのシンプルな素材は、しかしどれも同じでなく差異性があるから新しい世界を聴かせて貰うことができる。その新しさをシンプルに受け止めて人びとは歌いつないで行く。

 シンプルな素材は可能性をふくらませて幾らでも複雑にすることはできるが、複雑な素材はシンプルにすることは難しい。
 古今東西のクラシックの名曲の多くは、シンプルなテーマの組み立てが多い。民族音楽でも同じようなことが言える。
  Simple is the best だと思う。

宇宙からの電子音楽

 「コスモス200」という電子音楽を創ったことがあった。それはNHKの放送技術と野辺山電波観測所のご協力で、 84年に NHKで製作し放送初演された。
 
 音源はホワイトノイズを切り貼りして組み合わせだけでした。シンセサイザーの鍵盤で創った音とはかなり違っている。音楽の内容は、星空を夕方から翌日の明け方までの12時間に固定した窓枠から見える星たちをそのママ音で一つ一つ再現し、満天の星が輝いた世界を表現したものでした。
 星には地球からの距離や星自体の温度などそれぞれに個性があり、その星たちのデータを数値化した資料から蘇らせたものでした。
 各星は自転で発するパルサーが異なり、近くの星は ブルルルル、とオートバイのような音になり、遠くの星はチコン チコン と間遠になり、様々な音が響き合っていました。

 80年代の後半から十年程、小学1年生の音楽の教科書(教育芸術社)に「星の音楽を聴いてみよう」という副教材として載っていました。それを教室でレコード鑑賞された子どもさんも極少ないけどいたはずです。もう社会に出て中堅の輝かしいお仕事をされている歳でしょう。その音楽を覚えていたら、その時の感想を聞いてみたいものです。

 原盤は NHKで、その保管はレコード会社に依頼しましたが、その後行方不明になってしまい、現在では幻の音源と言われています。唯一教科書に準拠したハイライト版の原盤が残っていて、それで原作の壮大な星たちの歌声の一部をかろうじて聴くことができるのです。

繰り返し

 CMでも使われる手だが、同じ言葉やリズム、アクションを繰り返す作り方をしていることがある。人は同じことの繰り返しが記憶に残りやすいからだ。但しやり過ぎると「くどい」と拒絶反応が生まれるので、ここでも昔から「仏の顔も三度まで」がいい。

 音楽の多くも一つのことの繰り返しでつくられていることが多い。全く同じ繰り返しは飽きられ、表現の薄さ、教養のなさ、耳につき過ぎるいらだちで、三回以上の繰り返しは効果がない。

 一つのメロディーを例にとっても、基のメロディーを繰り返しながら、他の人の手と違うテクニックで展開させることが、常に新しい世界を生み出してきている。そのテーマに対照的な話題のテーマをもう一つ提示させ、同一曲に共存させると新たな形式を生み出し、そのルールの中で話題は沸騰して盛り上がりの中で結論に向かうことが多かった。

 盛り上がらない、テーマを繰り返さない音楽もあるが、圧倒的に一つのテーマを繰り返しながら、手を替え品を替え如何に他の人と異なる表現でエクスタシーを感じさせたが、名作となり残ってきている。だから名作がひとつのことをどう繰り返しているか分析すれば、仲間どうしで「音楽づくり」では簡単なモチーフから超大作をつくることが可能なのだ。

 もちろん数パーセントのオリジナルが生まれるためには、繰り返すというコンセプトからみんなで他の音楽との差異性など考える必要はあるのだが・・・

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