Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

カテゴリー: 音楽の仕組み・構造 / MUSIC-STRUCTURE (Page 2 of 2)

音楽づくりと作曲家

 子どもや市民と作曲家が同じ目線で音楽をつくる、という活動は30年前には余り聞かなかった。まして学校の音楽室で一緒になって音楽をつくる、ということは考えられなかった。四半世紀前から音楽家が学校で生の演奏を聴かせる活動が盛んになった。本物の芸術を聴かせる、ということで演奏家は耀きの場に参加するようになった。
 問題は演奏家が主役で輝いて帰ってしまうことにあった。別に本物の芸術を提供したと思っている人びとを腐すつもりはない。ただ、学校では先生をサポートさせていただくことが大切で、その手だてによって鑑賞の感動が後に生かされると思うのだ。そこで最近の学校の音楽室で何が生まれているか紹介させていただく。
 「新しい音楽教育を考える会」の 『TASモデル』。そこで私は20年程前から「みんなでつくるコンチェルト」などのためにつくった「パッサカリア」のテーマで、教室の子どもたちとプロの音楽家がサポートした授業記録が Webサイトからどなたでも見ることができます。
 icme.jpから入り、「ジャーナル」の4号をご覧になると、約110ページの記録と動画に出会えます。

日本音楽集団・第232回定期演奏会

 日本音楽集団は邦楽をメインに据えた新作を含む意欲的なプログラムの演奏会を、半世紀以上続けている素晴らしい邦楽器の音楽団体である。同団がこの2月15日に豊洲シビックで「現代に生きる私たちの音楽」という演奏会を開催した。
 夏田昌和、細川俊夫、川島素晴、北爪裕道、権代敦彦の作品で、それぞれ国内外で活躍していて定評のある作曲家諸氏だった。
 これまでの同団の委嘱作品は、伝統的な邦楽器の手のウチを基にした新しさだったが、今回の作品はその手を超えていた。つまり邦楽器であり、正にそのアンサンブルに違いないのだが「新しい手のウチ発見」という世界が展開されていた。
 夏田作品は、箏の調弦がズレテいて、それが妙な響を生み出していた。だから箏で今まで聴いたことのない歌が揺らいで生まれていたのである。
 権代作品は邦楽で表現する鎮魂歌のように、邦楽器が古典で鳴るアンサンブルとは違って、それぞれの楽器が響き合って、呼び掛け合っているから驚きだった。
 
 新しい音楽を生み出そうとすると、今までにないハッタリのような表現が多く見られたりするものだが、細部を超えてそれぞれの作曲家は音を自分の世界に呼び込んでしっかり語っていた。充実した演奏会だと思った。

音楽は仙骨から

 スポーツや武道に限らず、音楽も同じで身体を使い表現する基は「仙骨」にある。腰を使う、腰から動かすとよく言われるが、骨盤全体を言うのではなく、その中央にある仙骨の使い方が重要なのだ。このハート型の骨は動かないように思えるが、鍛えると動くのである。そこから全身を動かさないと、筋肉や筋を痛めることになる。無意識でも偉大なアスリートは鍛錬で使う術を知っている。球技などでもタマを捉えるのは仙骨と向き合うからで、音の捉え方も同じなのだ。

 ピアノを弾くひとは全身で弾いているように見えるが、小手先や上半身だけで弾いている人が多い。歌でも楽器の演奏でも同じで、頭でなく仙骨でリズムやハーモニーを感じ、それが音楽の豊かさを感じる基になるのだが、クラシック音楽家のベテランではそれが分かっているひとは少ない。

 このトレーニングは「掌鉄球」(ソフトボールの球に似た少し重い球)を両手で包み持ち、仙骨からゆっくり上下左右に動かすところから始める・・・これは私が発見して実施したことではなく、マレーシアに住んでいた和道<合気道の一種>の達人、故・早川師父(シーフー)から学んだ事だった。私なりには、確かにゴルフでも野球でも球の飛び方も違って来たし、音楽の波動をみんなと共有する術としては、自在な表現ができる技術だと感じた。しかし私の後進の指導に対する受け持ち講座は「作曲」であったため、音楽でこの技術を受け継ぐひとはいなかった。

天才の芽

 子どもは自分で考えて表現する術は、本来天才だと感心する程の力を持っている。創造は模倣からと言われているが、大人の方が物まねの段階で留まってしまっている人びとが多ようだ。そして子どもの可能性や子どもの新発見、新表現は、固定観念の強い経験豊かな大人が評価出来ないでいる。いや、潰してしまっていることが多いように思われる。
 ただ、子どもたちは情報量が少ないことと技術が未熟な点は否めない。そこを必要に応じてサポートして差し上げるだけで子どもは体得して自由に表現していくのだが、大人は子どもの幸せを願いすぎてお節介に向かうことが多いようだ。もちろん情報や技術というのは、何歳になっても常に習得していかなければならないし、精神的な熟成に早道や楽な手だてはないから大変だ。

 例を一つ。子どもに増音程など歌わせてはいけないし、歌えないとされていた。ましてそれをテーマに「音楽づくり」をするなど、絶対に無理だとも言われていた。譜例にあるのが1998年に小学校の子どもたちと音楽づくりをした時の拙作のテーマだ。20世紀の大作曲家がつくった十二音音楽を、いとも簡単に穫り入れてオリジナルを子どもたちの複数チームがつくりあげて行った。特に驚いたことは、子どもたちがチームを解散した後、テーマを歌いながら帰っていたことだった。それも歌いにくいとされる音程も正確にスキャットで歌っていた。

 声の出し方でも、画一的な教え込み出なくても、自分たちがカッコいいと思う表現で歌っている。ただどうしても評価を受けたりや褒められたい気持ちがあるので、大人の顔色を見てしまう機敏さが問題になることもあるが、子どもたちの自由な表現を黙って見聞きしていると、宝石の原石のような耀きで音楽を楽しんでいる場面に良く出会う。

図形楽譜

 20世紀の後半に様々な図形楽譜による音楽作品が世界各地で生まれ演奏されました。今では過去の作品や新たな図形楽譜の作品が演奏されることは少なくなりました。五線紙に記された音楽の方が再現しやすいのかもしれません。

 本 Webサイトの表紙は拙作の図形楽譜です。「スカイプロズム」「リンの詩」をデザインしたものです。私は気が付いたら図形楽譜でもたくさん音楽を発表してきたひとりになったようです。自慢ではありません。キケンな実績なのです。今まで誰からも褒められたことがありません。むしろ演奏家や作曲家と友だちになれない要素を持っているようです。再演してくださった演奏家を除いて共通の苦言を聴き続けてきました。「私は音楽を頼んだのに絵を描いてきた」。そして仲良くなれたのは子どもさんたちが多かったようです。音がルールのなかで、そのルールも自分たちでつくれる、自在な音楽を生み出すことが五線譜で記された音楽より面白く楽しめたからです。

 「万華譜」も同じ原理ですが、「スカイプリズム」など音が空間に浮いていて、演奏者が見る(感じる)角度によって音の存在が変わってきて、その感じた音たちと触れ合うことがいいのですが、五線譜に書かれた音を忠実に演奏することの名人諸氏には苦手だったようです。例をひとつ「スカイプリズム」で。三角錐になっています。その△面に音を指定します。三面の内の一面(一辺)を先ず指定します。ドとソにしました。するとそこから三角錐の中を見るとひとつの音がミの付近に浮かびます。もう一面は前述した面のひとつドとオクターブ上のドとします。するとこの面から見ると先程の音が ファの付近に見えるかもしれません。三面目の線を今のオクターブ上のドから三度下のラにすると、その面から見た同じ音がシ付近かもしれません。見る面により音の浮遊が変わって来ます。演奏者は三角錐を回しながらピアノで奏でられるドレミ以外の音を含む浮遊している音を紡いでいくのです。作曲者の描いた指定音よりもっと自由な音たちにふれ合える「即興」がそこにあるのですが、演奏者は心配で自分で五線譜に事前に書き込んで練習しています。そこが難しいところで、また評判が悪いのだと思いますが、私は宇宙の星たちがさまざまな「窓関数」で自由に歌っているところが好きなのですが・・・

 誰からも教わらなかったし、次世代の作曲家の誰にも伝えられなかった領域のようです。この種の作曲では親分無しの子分無しですが、しかし全く偶然に生まれたわけではなく、私が最初に和声や作曲を学んだ水野修孝先生からコンセプトを培ったように思っています。

万華譜

作品について

 図形楽譜による箏と打楽器のための作品。正方形に書かれた楽譜は,90度ずつ傾けて4回演奏され,そのたびにまるで万華鏡のようにそこに表された音の世界が変容する。どの角度からはじめてもよいし,2人の奏者のテンポも決められていない。

 しかし2人の奏者は互いに音を聴き合い,互いに反応し合って曲を進めていく。2つの歌は2つの流れのように時にはからまり合い,時には追い掛けあい,一致・不一致を繰り返しながら進んでいく。箏や打楽器の様々な技法と音色は,まるで声色を使い分けているように2人の演奏を彩っていく。

 この楽譜をもとに,多様な音色や演奏のできる楽器を選んで,楽器を使った対話を楽しんでみたい。

  坪能由紀子<音楽教育>:本作品の企画制作者(委嘱)

プログラムノートより

Constellation Ⅱ

<コンステレーションⅡ>百本の木管群とコントラバス群と打楽器群のために

71年作、同年秋に東京音楽大学で初演。72年東京・青山のホールで再演。

 演奏場所の中央にコントラバスが輪になって向き合い演奏。そこから打楽器奏者が螺旋状に拡がった位置で金属片・トライアングルなどで傍を通過する奏者と単音で応答。木管奏者(フルート・クラリネットが主で、他にオーボエやファゴットなど計約百名)が中央からゆっくり遠方に奏者が聴き合って交流出来る距離までゆっくりとした歩調で拡がり、また中央に戻ってくる約30分の音楽。コントラバスと木管群は、近い奏者と聴き合う音の反応をロングトーンの弱音で、短2°や長7°などのハウリングが起こる音により交流する。

 [ギネスブックに載りそうな演奏として]・・・公開演奏に於ける多数の警察官に追われた作品
 ホールの庭に全演奏者が集まり演奏開始。パイプオルガンの鍵盤を、両手でなで回しながら押さえたような音が庭から立ち上り、風にも流されてホールの建物からもにじみ出した・・・回りのマンションや家々の窓が開いて会場を見つめ始めた。5分も経たないうちに会場にクレームの電話と110番通報が殺到した。青山一丁目からと赤坂見附の交番から警察官が自転車で到着した。道路から公園の方にまで拡がった演奏家の音たちは不思議な世界を醸し出していた。そこにパトカーのサイレンが遠くから加わってくる。ウ〜〜〜ッというサイレンの音が演奏に加わって、ホール玄関に警視庁のパトカーが停まった。主催者と本作品の責任者を出せ、と5〜6名の警察官と主催者の押し問答になった。一歩ホールに入ると裸の女性がボディーペインティングで表現中だ。ややこしいことになるので平謝りしながら「芸術の発表です」と主催者が防波堤を築いてくれた。やがて演奏家が元の庭に戻ってきて、静かに演奏が終わった・・・騒音防止条例、道路交通法、無届けデモ行為、軽犯罪法などの違反云の疑いがあったようだが、警察官に追われながらの作品上演はかつてなかったようだ。

 

誰もが直ぐ同時に作曲家・演奏家・聴衆を楽しめる!

 ルールづくりは作曲のスタート。坪能のコンセプトから参加者のオリジナル音楽をみんなでつくり、演奏することができて、聴き合える音楽に感激!
 ☆使用楽器=オカリナ、リコーダーなど、(全部同一楽器でも、参加者が演奏出来る手持ちの楽器を寄せ集めてもいい)
 ☆演奏時間=5分程度から数十分程度を基準にするといい
 ☆演奏(音楽づくり含む)人数=十人から数十人。複数のグループと合同演奏するルールで発表すると、数百人で数時間の音楽を楽しめる
  基本の音を一つ決めて聴き合うこと。全体で一つのグループとしてつくるか、7名前後のグループで音やルールを決め、各グループが一堂に集まって全体で演奏し合うか決める。
 基本は一つの音をみんなが合わせる、そこから音をズラスなど、聴き合いながら「反応」、「即興」によって展開させていく
 ☆演奏場所=(人数によって)小学校の一つの教室〜体育館〜校庭(広場)、
森や林からお寺の境内など
 また、昼間が演奏時間とは限らない。夜でも明け方でも可

 ★スコア(演奏譜)
 各自仲間の音と更新し合える距離。1音を基準に「呼び合う」
 全体に聴き合えるような音量を基本とする
 →次第に中央に向かい、ゆっくり歩きながら、自分に近いひとと「呼応」しあう
 →自分に近いひとと出会う、すれ違う時、基音ともう一つの選択音で「歌い合う」
  相手の音にマネをする、相槌を打つなど「会話」をする
 →中央に演奏者が集まったら、参加者の多くの人びとと鳥が鳴き合うような
 「会話」をする
 →会話の最後に、全員で強音による「会話」による讃歌を歌い合い、元の場所
  にゆっくり歩みながら、一番自分に近いひとと「呼応」し合いながら帰る
  静寂が戻った時に音楽が終わる  
   ~オカリナのためのコンヴェンション〜より

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