坪能 克裕 公式ウェブサイト Ⅲ(2001〜)

Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

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音楽をつくる

 最初に誤解が無いように申し上げておく。それは音楽をつくることは誰にでもできるという意見や、ピアノは誰でも直ぐに弾けて演奏を楽しめる、という表現が誤解を生むからだ。「音楽をナメているのか」と叱られそうだ。作曲も演奏も、何十年も努力をしても奥深く、誰もが納得がいくような名人の域に達するものではない、という至極当然のご意見を誰もが持っているからだ。

 管楽器でも弦楽器でも、一音気に入った音を出すのに何日もかかることがある。ピアノは指一本でも簡単な音楽は直ぐ出来るし、歌も聞きかじり程度なら直ぐ弾ける、ということは誰でも知っているだろう。

 子どもでもいい音楽は沢山つくれるし世に溢れているが、多くの人びとの心をノック(ヒット)する音楽は、そうそう生み出せるものではない。しかし、簡易楽器や打楽器などで、技術を持たない人びとが、自分たちの持ち合わせた情報や技術で音楽が生まれる構造をヒントとして共有すると、誰もが直ぐ音楽をつくり合うことができる、という例である。

 音楽をつくってみると、自分のなかにある音楽を仲間と共有できること、仲間の音楽を聴くことにより、他人の価値観を大切に出来ること、そして同じ目線でひとと寄り添えること、古典の名作や文化芸術に、またそれらをつくり、演じ、護る人びとをリスペクトできる、ということが生まれるのだ。だから、いい音楽がつくれたかも大切だが、様ざまなリスペクトが培えることが大きいのである。

故事から新事

 詩人の谷川さん、波瀬満子さんたちがつくった「ことばあそびの会」は以前ここでふれたことがある。一つの言葉やその切っ掛けから連想する世界をふくらませるのは、音楽をつくることと同じで、随分トレーニングさせてもらった。ダジャレも多く、言葉を大切にする人びとからは嫌われたが・・・

 「青天の辟易」というのがある。晴天時に突然雷が鳴る(霹靂)ことと同じで、突然何かが起こることにうんざりするというシャレだ。

 「君子危うきに近寄らず」という言葉と「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という故事がある。しかし「虎穴の出口で虎児を待つ」となると意味深で、様ざまな場面が空想できる。

 子どもの頃に「鳴かずんば 鳴くまで待とうホトトギス」『・・・鳴かせてみようホトトギス』『・・・殺してしまえホトトギス』という有名な句に出会った。家康・秀吉・信長を良く表しているといわれた。それを「鳴かずんば 自分で鳴こうホトトギス」と言って、子ども仲間に受けたことがあった。ところがその後、同じことを言って知事になった人がいた。有名人の宣伝文句に私はすっかり白けて、以後封印してきた。

 同種のあそびは一冊の本が出来るほどあるが、その内容に価値があるのではなく、温故知新はその種のあそびから誰でも面白い創造への誘いがあるように思われる、というサンプルとして思い出した。

校内流行歌禁止

 校則の見直しがニュースになっている。私の子どもの頃だってヘンな校内ルールがあって、校内で社会を学ばせてもらったことが多かったようだ。
 いつの時代のどの学校にも「聖職」を地で行く先生がおられたなか、「愛のムチ」(暴力)を振り回す先生もいた。明確な理由もなく坊主頭にされたし、あれはイカン、これはダメの、でシバリまくり、先生は児童生徒を護ってくれない、裏切るのは当たり前で味方や理解者にはならないのが大人だと教えてくれた。

 ヘンな代表例が「流行歌を校内で歌ってはいけない」という指導だった。生徒は世の流行に敏感だ。歌だけではなく何でも話題に触れてマネてみたいモノだ。ところが流行歌を歌うと、映画館に行くと不良になる、というのが理由で禁じられていた。一時ビートルズの歌やカッコをマネるのは禁止、と教育委員会が文句を付けたことは有名な話しだ。でも子どもの個性はそれらのカベを乗り越えて価値観を豊かに培って行ったようだ。

 みんなで考えつくった社会のルールは護らなければいけない。しかし流行歌を含む文化芸術などの個人の選択は、先生が禁止する行為は人権無視にあたる。
 ルールはドンドン破られるから面白いのだ。そう、名曲にある作曲者の作品番号は「前科何番」を意味しているから、今でも新しいのだ。

アマチュア音楽団体

 クラシック音楽界全体にもいえるが、音楽団体の環境も、技術・実力など数年前と随分変わって来ている。ここではアマチュア音楽団体に限って話すが、10年前と、いや3年前とも変わって来ている。「昔はこの団体はヘタだった」という評は一気に偏見に変わってしまう。指導者も勉強しているし、プロのトレーナーの参加もあって、またそれらの環境を整える資金も集める努力があると、見間違えるほどの成果を上げる団体になっていたりする。

 私は可能な限り毎年全国何処にでも出かけて行って聴くことにしている。噂や他の人の耳目を信用するのではなく、常に進化する団体の表現は、自分の耳で確認するのが一番だからだ。それは財団の助成金審査などでの判断には必要なことでもあるのだ。団体の現状を知らないで「いいと思うよ」って無責任だと思うからだ。

 11月末、ハーモニカ・アンサンブルを聞きに佐賀県まで行った。
 実は、私はハーモニカのアンサンブルは学校で子どもたちが吹く音楽以外知らなかったのだ。いま生まれている音楽を、私の耳でも評価させていただきたかったからだ・・・ 低音から高音まで生かされた楽器群が、編曲の腕で対旋律も豊かに、オシャレな表現をされていた。もちろん発展途上で、アンサンブルにはまだまだ新しい表現の可能性が残されているようだが、高齢者まで楽しんでいる音楽を聴くと未来が明るく輝いてくるようだった。

老化と新化

 老化現象は凄まじく楽しい。誰でも高齢になるに従い、主にアナログの身体部は劣ってくる。厄介なことが多くなり、その手続きが煩わしくなるものだ。高齢ドライバーが勘違いする事故も多いが、それはデジタルの信号を送ってもアナログ部に伝わっていなかったりするからだ。

 高齢化は指先、口元からといわれていたが、目も耳も怪しくなる。ところが人によるのだろうが、今まで見えなかったモノが見え、聞こえなかった音が聞こえるようになってくる。別に霊界の呼びかけが分かるワケでは無い。何を考えてどうつくりたいのか、作品づくりの瞬間が見て取れることもそのうちの一つだ。音楽の表現でも、みんなが理解できる共通言語も必要だが、聴いたこともない手で知らなかった世界に誘ってくれるのが芸術の面白いところだ。しかしなかなかそんな世界は滅多にお目に掛からない。結構バレバレな表現で誤魔化しているひとが多いモノだ。

 聞こえなかった音たちが浮かび上がってくる、ということは個々の楽器やアンサンブルで呼び起こされる「倍音」の上に現れる新たな音の組み合わせのことだ。音には純音もあるが、大体様々な倍音が一杯詰まっているものだ。それをどうひとは感じ、表現して、私たちは空間に響く音たちと触れ合っているかが音楽の醍醐味なのだ。名人たちの倍音づくりも面白いが、実はヘタな人のアンサンブルの高周波成分のぶつかり合いの方が面白い時がある。その周囲の聴力は衰えたかもしれないが、可聴範囲で聴き合える倍音のぶつかり合いによる新次元は、気が付いたら高齢者の楽しみの特権かもしれない。

名村 宏

 作詞家の「名村 宏」氏をご存じの方は少ないかもしれない。主に子どもの歌の作詞をされていた。キングレコードの専属だったこともあった。私は90年代にキングのディレクターの紹介でお仕事をさせていただいた。

 亡くなられて15年以上経つだろうか… ご自分の誕生日のお祝い用に缶ビールを冷やしておいて、飲む前にお風呂に入って、そのママ一人で乾杯することもなく亡くなられた。

 公表されている氏の作品リスト内には、私は多くの子どもの歌を当時書いていたことが分かる。それを氏より十年程早く無くなった奥さんが、新作が発売されるといつでも何処でも何百回も歌い続けてくださった話しを、奥さんが亡くなられた後に氏よりお聞きした。ご主人のお仕事も深く愛され暮らしておられた証拠だと私は思った。と同時にたった一人でも深く愛して歌ってくれ続けた人がいたことが私には誇りだった。

 合唱組曲もつくらせていただいた。You Tubeで「蝶の谷」を検索すると合唱コンクールで歌われた「岡崎市立矢作南小学校」の熱演を聞くことが出来る。

ジュニア・オーケストラ

 半世紀前には考えられなかったステージが全国で展開している。小中高生を中心としたオーケストラが各地で育っていて、その成果が評価され始めていることだ。全国のそれらの団体の多くを私は拝聴して来ている。

 四半世紀前でも、オーケストラに準じた音楽団体が生まれていたが、まだ微笑ましいアマチュア団体というレヴェルだったように思われる。そこから育った子どもが世界を闊歩する実績になった人もいたが、そこで習得した技術のクセがその後の才能を閉ざしてしまったこともあったようだ。

 今は違う。プロの、しかも一流オーケストラの主席奏者の指導チームが直接子どもを指導している団体が増えた。ママごとから発展した大人と同じような音楽のコピーがステージに拡がっている。そこに賞賛はあっても文句は無い。それはステージの披露を踏襲した成果の表れだが、演奏も出来ない子どもとの共有に向かう手だても残しておかなければいけないような気がしている。鹿鳴館の時代ではないのだから。しかし、指導者にそのヴィジョンがないので、なかなか新たな音楽の共有が、技術を持たない人びとと出来ないでいる。 SDGsの時代、その手だてはすでに学校や社会でも実績が積まれていて、これからの半世紀に楽しみが拡がって行くように思われる。演奏指導者はそこが今後の課題となっていくように思われる。

東京文化会館チェンバーオーケストラ

 東京文化会館が主催してきた「東京音楽コンクール」の上位入賞者が集い、室内オーケストラの演奏会がこの11月26日に同館で開催された。

 文化会館がオーケストラや合唱団を持ち、市民に質の高いプログラムを提供する時代になってから大分経った。東京でも実現した形だが、他と異なるのは国際的なコンクールを実施して、その受賞者にステージを設け、受賞後の各個人の活動を支援してきて、更に室内オーケストラに発展させているところだ。

 コンクールで人財を発掘させるだけでなく、その後の支援を続けている会館の活動は素晴らしいことだと思われる。

 演奏曲目は、シューマンのピアノ協奏曲、ベートーヴェンの交響曲第二番等だったが、26人の編成は新鮮で豊かなアンサンブルを聴かせてくれていた。それは在京のオーケストラ団体が再編する時にも参考になり、大都市で同規模のオーケストラが続々と誕生し、文化芸術活動ができる時代になっていく予告になったようだ。とにかく優秀な若手音楽家が多数在住している都市が多いのだから・・・

 アンサンブルをまとめた指揮者は、国内外で大活躍の若手のひとり「三ツ橋敬子」氏だが、本公演だけでなく、その後「オーケストラ・プロジェクト」などの現代音楽プログラムの日を拝聴しても、作品・オーケストラの生命を瞬時に捉え、ステージを越えて音楽を人びとに開放させてしまう力は、その人気・実力をもってこれからの音楽界を至福の世界に誘ってくれる気がした。

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