坪能 克裕 公式ウェブサイト Ⅲ(2001〜)

Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

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東京タワー文化フェスティバル V プレコンサート

東京タワー展望台 特設スタジオ Club333演奏会のお知らせ

 坪能克裕音楽監督の企画を、三回に分けて紀尾井ホールでのコンサートのハイライト版として公開演奏を開催します。(各1時間内)
 なお、演奏会は無料ですが、東京タワーメインデッキ・Club333への入場料(大人1,200円など)は必要です。

※ 新型コロナウイルスの影響により開催情報など変更になっている可能性があります。おでかけの際は公式サイトにて最新情報をご確認ください。

① 現代音楽作品事典データベース公開イベント 日本文化の源流
 シルクロードの音楽旅行 〜ペルシャ音楽との出会い〜
 2021年7月4日(日) 16:00〜

[プログラム] 

  • イランの文化紹介
  • イランの伝統音楽
  • 日本の伝統楽器の今(箏、三味線、17絃)
  • 現代作曲家作品事典について
  • コラボレーション など

[出演]

  • Amin (イラン民謡歌手)
  • Arash Rahmati(セタール)
  • 林原 慶子(イランのお話)
  • 安藤珠希(箏、三味線) 彩里京鼓(箏、17絃)

② 同2021年7月25日(日) 16:00〜

[プログラム] 

  • ウズベキスタン
  • ウズベキスタンの伝統音楽
  • 日本の伝統音楽
  • コラボレーション
  • Janon Bo’laman(眼龍義治作曲)
  • アトラス着物ショー
  • 碧空に咲く花(金益研二作曲)

[出演]

  • Ismonov Umidjon Bahodirovich(ギジャク)
  • 安藤珠希(箏、三味線) 彩里京鼓(箏、17絃)
  • 岡田道明(尺八)
  • 柿崎竹美(日本民謡歌手)
  • 小池芳子(ソプラノ歌手)

③ 同2021年7月25日(日)18:30〜

[プログラム]

  • リトアニア
  • リトアニアの文化紹介
  • リトアニアの音楽
  • 日本の歌
  • コラボレーション

[出演]

  • 柿崎竹美(日本民謡歌手)
  • 小池芳子(ソプラノ歌手)
  • Zydre Ovsiukaite(バイオリン)
  • Danielis Rubinas(コントラバス)

主催・お問い合わせ: 文化発信促進委員会(CSPC): 03-3455-6881まで
総合ディレクター: 岩本卓也 @東京タワーデザイン:Akko Tera
司会進行: 橘治霞(総合プロデューサー)、ジョセフアマト 通訳:オリムジョンジュマバイフ
助成: 東芝国際交流財団、メセナ協議会 協力:東京タワー、リトアニア共和国大使館、ウズベキスタン共和国大使館、アルゼンチン国大使館、ルーマニア大使館、East Music Center (EMC) 、ウズベキスタン作曲家協会、Genza Corporation、SANSAN他
後援: 邦楽ジャーナル、日本ISMNコードセンター、マザーアース

「競楽」という演奏コンクール ②

 ピアノ デュオ ドゥオール(藤井隆史&白水芳枝)の演奏会を東京文化会館小ホールで聴いた。6月15日(火)に昼夜二回ある方のマチネーの部だった。競楽で知り合った演奏家だが、コンクール参加歴は国内外の実績を既にお持ちのようだ。現代曲ではなく、ラフマニノフやボロディン、そしてサンサーンスの「動物の謝肉祭」で、二台ピアノと連弾により約80分、休憩無しでアンコールを含め連続で演奏されていた。

 夫妻でピアノの演奏家というのは大変だと思われる。音楽を語り、表現すると、意見の一致や共通の美の世界に収斂することが多いからだ。ところが4手の演奏でも相手と音楽的な闘いがある。意見が異なり壊し合う世界もあるだろう。簡単に丸くならない音楽が面白いからだが、人間関係が壊れてしまっては本末転倒になってしまう怖さもあるだろう。
 音が洗練されていて美しい響きを放っていた。そして簡単なフレーズではクラシック音楽の演奏家独特なアゴーギク。すらりと弾いてもいいと思いながら、お弟子さんに伝える語り口もそこから伺えて面白かった。

 「動物の謝肉祭」では二人が谷川俊太郎氏の「動物たちのカーニバル」の詩による朗読も加味させた熱演を見せていた。しかし音楽を物語と合わせると子どもにでも分かりやすいと思ってのこともあるのだろうが、今の小学校の音楽室では先生がたが子どもに指導しない方法だ。
 クラシック音楽から現代音楽とレパートリーは広いが、安らぎの世界に入っていくよりアグレッシブな世界へ挑戦してくださることも期待したい。

「競楽」という演奏コンクール ①

 91年に現代音楽の作曲家団体「日本現代音楽協会」が創立60周年を迎え、その記念に国際的な規模の演奏会を含む『東京現代音楽祭』が開催された。
 音楽の様々な領域を拡大して、子どもから大人まで、アマチュアとプロの音楽家、新しい音楽領域の結びつきなどを掲げて、一ヶ月程の大会で大きな成果を上げた企画があった。

 現代音楽協会会員作品を含む世界の作曲家の新作を、ジュニア・オーケストラとプロのオーケストラによる演奏会「響楽(きょうがく)」、その吹奏楽版の「吹楽(すいがく)」、同合唱版の「唱楽(しょうがく)」、世界の子どもの創造的な音楽活動やそれに関する演奏会・シンポジウム・ワークショップなどの「童楽(どうがく)」、コンピューターが加わった新作演奏会「電楽(でんがく)」、そして現代音楽作品を課題曲とした演奏家の登竜門「競楽(競楽)」があった。

 競楽では朝日新聞社と提携した「朝日現代音楽賞」が、その後四半世紀に亘って若い優れた演奏家に贈られ、日本の音楽界に大きく貢献した。大会会長は故・三善 晃先生で、大会プロデューサー兼事務局長は私が引き受けて、約一ヶ月開催された。それは作曲家団体のコンセプトを変えるほどの画期的な企画となり「音楽之友社賞」もいただいた。
 その競楽の創設は、自分の弟子の育成からは外れた業績になると思われるが、しかし受賞者も知らない私なりの「次世代育成」として、密かに誇りに思っている。
 そこで表彰されて羽ばたいて行く人びとのコンサートに伺うと、他の企画とは別の嬉しさが湧き上がる。
 次回、その種類の演奏会からレポートさせていただく。

国際音楽交流・演奏会

※ 今回、新型コロナウイルスによる「緊急事態宣言」を受け、公演を延期することになりました。後日細部が決まりましたら、再度本ブログでお知らせします。 

 世界の国々と音楽による文化交流は、簡単なようで難しいことです。これまでは参加国通しで伝統的な名曲を歌い合ったり、演奏し合ったりして親睦を深めてきた歴史があります。
 現代の国際的な文化交流は、創造的な活動も加わって来ています。つまり双方の名曲を歌い合い、演奏し合うだけでなく、歌や演奏する人びとが、相手の国の音楽的な要素を理解して「つくり合う」ことも加えた交流に発展しているということです。
 異文化の人びととの創造的なコラボレーション企画の演奏会が今夏開催されます。人びととの出会いから、新しい音楽が生まれて来る時代の最前線をご紹介させていただきます。是非お出かけくださいませ。

World Collaboration Concert II

2021年8月1日(日)
14:00開演 13:15開場 @紀尾井ホール

※開催延期

らしい〜のような音楽

 私は元々「〜らしく」などという意味不明な区別にはアレルギーがあった。
何が子どもらしいか、高校生らしい野球とは何か、男らしい、年寄りらしいとは何をさしているのか、全て意味不明な言葉だと思っている。
 
 企画制作責任者の範疇だが、酷い注文も時としてあった・・・「三善 晃のような合唱曲が欲しい」(なら、三善先生に委嘱すればいい)。「今売れている全員合唱作品の代わりにふさわしく・・・前奏4小節、歌い出しはユニゾンで、次第に盛り上がっていってクライマックスに・・・」、さすがに断った。注文者がそのように書いたらいいと思った。
 ワーグナーの楽曲のママでいい、アニメ創作のイメージが湧く、という注文を断れずに書いたことがあった。アレンジ部分より原曲のママのところが音楽として迫力があったが、そんなことより作家としてはマイナスな結果だったと思っていた。

 教団の青年たちが南方の大東亜戦争の被災地への慰問に行った。趣旨は素晴らしいが、みんなで歌う歌は戦時中の軍歌の替え歌だった。それでは慰問にならないので、踏襲した新しいみんなの歌を創って欲しい、という主催団体の企画に参加して愛唱歌を何曲か書いた。
 創作当時はそのお仕着せ賛歌も団体員に喜ばれたが、青年諸氏のその時代の人気ポップスとは異質だった。企画自体が問題だったかもしれないが、本当にいいことをしたのか疑問が残ったままになっている。

ホーミー・倍音

 30数年前、日本でそんなに歌唱出来る人がいない頃、私はモンゴルの民族歌唱「ホーミー」を学んで歌えるようになっていた。
 低音(ドローン)を口から響かせ、その上に倍音で異なる声部のメロディーを重ねる唱法だ。その響かせる身体のポイントは頭部や胸部など数カ所あるが、技術はともかく大草原の彼方と調和する素晴らしい歌唱になっていて、複数の同時歌唱を楽しんでいた。

 その倍音は「声明」にもある。お坊さんの集団音楽的読経だ。普通聴いていると経には違いないが、喉を絞って出す声には倍音が生まれていて、ホーミーのように高いところで別の音(歌)が生み出されてぶつかり合っていることに気付かされる。
 その倍音が私たちにはありがたいほど安らかな世界に誘ってくれるようだ。雅楽でいうと笙のような、空間を埋めながら、倍音から生まれた歌が空間の中で際立つように縁取って行く。可聴範囲を超えた倍音の重なり合いが、私たちを未知の音楽空間に誘ってくれているようだ。
 
 身近な例で善し悪しは別として倍音の多い音楽会の例を記して見る。それはヘタな合唱団、アマチュアのブラスバンドやオーケストラなどだ。つまりピッチが合わないところで音がぶつかり、倍音が多数出てしまう演奏がいいのだ。しかし基の響きが不安定な時は倍音で生まれる音の像が聞こえづらいかもしれない。

ビブラート

 この頃の若い声楽家には少なくなったが、それでもウワオ〜ワオ〜その辺の音を揺すったビブラートや、チリメン・ビブラートといわれている音を震わすだけの声を出しているひとは今でも少なくない。
 歌・声の作品上の表情や解釈で、指定のピッチより上ずったり、低めに重く音程を取ったりすることやビブラートの種類による変化は良くある。しかしアバウトにその辺の音を揺すればいいわけではない。
 それは生理的に気分が悪くなる音楽表現で、それが私は嫌で随分仲良くなれない声楽家がいたと思っている。

 音楽スタジオで録音して編集してみると、そのいい加減なビブラートは解釈で付けているのではなく雰囲気で付けていた結果が直ぐ分かった。つまり編集ポイントが何回取り直してもどのテークともつながらないからだ。
 私がお仕事をご一緒したスターで女王と呼ばれた歌手は、録音で何度取り直しをされても、全く同じ歌い方をされていたので編集は何の苦もない作業になった。誤解が無いように付け加えるが、彼女のミスで録り直したのではなく、技術的な問題や何かノイズが入ったという、歌の責任外の話しだった。

オペラ「 Only the Sound Remains -余韻-」

 フィンランド生まれの世界的な現代音楽の作曲家カイヤ・サーリアホのオペラ「Only the Sound Remainsー余韻ー」が、6月6日・東京文化会館で日本初演された。
 東京文化会館の60周年記念の「国際共同制作」であり、日本文化と海外との創造的なコラボレーション作品になっていて、美事な歴史に残る作品として上演された。
 日本の伝統文化に触発された芸術が、音楽でここまで昇華された世界に出逢うことはなかなか無かった。能や歌舞伎、民俗芸能から邦楽の世界の影響を得たと作者が告白しても、どこかコピーを感じさせる迎合部に失望を感じたりすることがあったが、本作品は正にオリジナルの世界を展開させていた。

 原作は、能から第一部「経正」、第二部「羽衣」だ。英語で歌われ、そこにダンスが加わり、簡易に見えても人びとを精神世界に誘う舞台装置・音響・照明の演出は、異次元の世界を創出させていた。
 笛や打楽器での表現や、ダンサーの歩みに、時として能からのインスピレーションを感じさせるが、完全に国境や時間を越えたオリジナルな世界になっていたと思った。日本文化から影響を受けたという作品群のなかにあって、かつてこれ程美事な世界として聴かせていただいたことはなかった。日本文化とのコラボレーションの秀逸な例として、これから各国で何度も上演されて行くような実感を持った。

 7名程度の国際的なメンバーによるアンサンブルが小編成のオーケストラのような世界を描いていたことも驚嘆した。企画制作から、上演へ向けた全てのサポート、そして今回はコロナ禍のなかでの苦労を越えて成功させたことは、これ以上の讃辞の言葉を知らない。

神経衰弱

 現代音楽の殆どは、テーマと変奏だ。同じ手の繰り返しでなく、一つのことをあの手この手で展開させていく。頭で組み立てた構造は、変容の限界を超えて拡がって行く。基がどうであったか思い出しては理解を先に進めるのは、個人の耳では神経衰弱でトランプをめくる思いと同じだ。

 サウンドやメロディー・リズムという概念が新しい、とこれまでとの差異性をアピールしているが、その殆どは過去の焼き直しである。新しく見せかけているのだが、そこに価値が無いとは言わないが、古すぎる新作が多いものだ。

 過去の作品を知らないのではないかと疑ってしまう新作もある。この頃はコンピューターを駆使した作品も多くなった。リアルタイムで生の演奏との即興も可能になったし、他の分野とのコラボ(舞踏や絵画など)も目新しく移るが、1950〜60年代の日本の先輩諸氏の作品に初出されていたりしている。
 それらと重ね合わせて評価することは、これまた神経衰弱に似ている。

 感性の限界、という意味もある。理詰めの音楽の面白さもある。ただ、どうあがいても構造を変えることは出来なかったようだ。また複雑になればなるほど、創作にも演奏にも、理解にも「即興」の領域が少なくなっていった。音楽の基にはそのあそびが残っていないと、誰も興味を示さなくなっていく。面白い神経衰弱が見つかれば、様々な参加が期待出来ると思われるのだが・・・

無視の日

  6月4日は「虫歯予防デー」だが、その後「虫の日」が加わり、最近では「無視の日」というゴロ合わせの日まであるようだ。

 人を意図的に無視する行為は、陰湿なイジメの一つだ。しかも狙ったひとを誰でも手軽に仲間から葬り去る手になっている。子ども社会でも、大人から組織でも日常茶飯に行われている。「村八分」という行為は今も現実的にある。 
 その被害は深刻で、人間関係はもちろん子どもの深層心理まで病魔の専有物となっている。だからイジメによる「悩み事相談」の記事が其処彼処にある。しかし問題の種は千差万別・十人十色で複雑怪奇な様相に特効薬は無いようだ。
 加害者は誰に何をしたのか忘れても、被害者の心の傷は一生癒えないものだ。癒えないだけでなく、自分も知らずに弱いものをいじめる智恵を身に付けてしまうことになる。私は物心ついた時からあらゆる機会に遭遇して来たので、その被害の深さを承知している。今でもどんな理由であれ、シカトしたヤツとは二度と信頼関係を持つことはない程強烈な意志だけが残っている。

 悩みの基は、人と仲良くすることを子どもの頃から躾けられていることだ。
 シカトされて悩むひとは、何処か自分にいけないところがある、嫌われる自分がいけない、と責めたり何かを反省したりしてしまう優しさを持ち合わせているから、傷が深くなるのである。どんな理由にでもシカトするヤツがいけないのであって、被害者が不幸を味わう理由は全くないのである。
 窮鼠猫を噛む怖さを秘めていた方がいい。その毒と使い方はここでは記せない。加害者は弱い消え入りそうな人にも毒があることを知るべきだ。その肝の据わりだけでも、みんな確と(しかと)気が楽になるはずだ。

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