坪能 克裕 公式ウェブサイト Ⅲ(2001〜)

Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

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宮本む○し

  JR西明石駅の商店街に「宮本む○し」という定食屋さんがあります。初めての町を何の目的も無くフラリと降りて出逢ったお店です。そして名前を見た瞬間に「面白い」という思いと「宮本武蔵」というイメージが同時に重なりました。しかし自宅に帰ってきて、宮本むさしではなく、何だったか思い出せなくなりました。すると、む○しの○に様々な文字が浮かんできて・・・むいし、むかし、むりし、むなし〜・・・「拙者、宮本むこしである」という映画のシーンを想い浮かべるとヘンだし、「宮本むごし」となると意味が変わってくる、など文字の組み替えを暫し楽しみました。そのうちに「宮本○さし」だったか記憶が怪しくなってきました。宮本くさし、ではなかったようだし、など連想は続いていきました。

 そういえば「佐々木小次郎」を「ささき しょうじろう」と読んだひとがいました。剣豪「こじろう」とは随分イメージが違って、昔の近所のおじさんを思い出す名前になったようでした。
 (文中の例に正解があります)

東京文化会館チャンネル

 「東京文化会館チャンネル」という Youtubeがある。そこでは東京文化会館の建物の紹介から舞台の表裏、制作プログラムの数々が紹介されている。

   東京文化会館 YouTubeチャンネル
   東京文化会館 ウェブサイト


 鑑賞番組だけでなく、会館の自主創造企画、コンクールで受賞された若い人びとの意欲的な演奏、子どもから老人までの社会包摂企画、市民文化育成企画・市民参加企画、美術館など他の文化施設との提携企画と、音楽ホールが展開可能な全ての活躍内容の動画配信です。どれも素晴らしいプログラムです。文化事業だけでなく、文化芸術全てに対する「革命」が起きたと私は思っています。
 私が現在「外部評価委員」を引き受けているから、助言など少しは役立ったというレヴェルではありません。会館諸氏の総力を挙げた智恵と努力の賜物だと思われるのです。

 私自身が文化ホールの文化事業に携わらせていただいた経験から、文化事業の相談や助言を希望される全国の文化施設に届けてきました。講演もさせていただきました。時として、例えば“アウトリーチ事業”など批判もさせていただいた。それらの話題には文化会館がどうあって欲しいか、という明確なヴィジョンがあるからお手伝いさせていただいてきたわけです。そのヴィジョンがここに結実されている。だから情報の欲しいひとはこのチャンネルを見ればいいわけです。そして質問があれば直接東京文化会館を訪ねればいいことになります。  
 私が文化施設の事業に対して意見を申し上げる役割でも時代でもなくなったなァ、とも思っています。

コミュニケーター

 コミュニケーターとは人びととコミュニケーションをするリーダーのことで、地域の文化施設の文化事業と町の人びととを結びつける役のひとのことを言います。企業の活動ではなく、文化事業の市民リーダーという意味の造語です。

 この原型は96年ごろから越谷サンシティホールで展開された、市民のリーダーによる「歌のおねえさん・おかあさん」の活動にあります。歌うおねえさんではありません。歌い合うことで市民同士がいろいろな時や場所でコミュニケーションを生み出し、人びとや情報の交流が狙いなのです。ですから動く“リサイタル・スペース”ではありません。集う人びとが楽しく歌える環境をつくり、異なる価値観を認めて、ひと時歌い合える「ひろば」を大切にする、という企画なのです。要は歌わせることの方が大切なのです。そしてコミュニケーターとはその名称なのです。これは十年程前に多可町のヴェルディー・ホールの活動で実際に使った言葉です。

 ところが現実には、どんなに説明しても、 実践を体験してもらっても、モデルケースをつくっても、狙いに合ったところを褒めても、全然趣旨が伝わらないことには参りました。自分が輝くことが一番になってしまうのです。集まった人びとを輝かせる手だてが言われても思いつかない、という現実があったようです。
 音楽の師弟の育成は、より高度な技術を身に付け、より広く高いところで、より輝く訓練を受けさせることも大切で、そこから抜け出せない現実があったようです。構造的はそこが問題なのでしょう。歌うことで、いや楽器をもっても参加する人びとが輝くという時代のコミュニケーターが今一番望まれているのだと思われます。

協創時代 ②

 日本で最も古く、国際的につながりのあるクラシック系の作曲家団体「日本現代音楽協会(略称:現音)」の会長職を、08年から5期お引き受けしたことがあった。歴代の会長(旧称:委員長)とは異色な理事(旧称:委員)であった。それは作曲家としての実績よりプロデューサーとしての活動が多かったからだ。しかし立候補制ではないのに多数の理事が推薦してくださった理由は、91年に現音創立60周年記念「東京現代音楽祭」のプロデューサー兼大会事務局長を引き受け、作曲家の活動領域を拡大させたからだろう。当時の大会会長の故・三善 晃先生は大会の副題に「おててつないで花いちもんめ」とあそび言葉を加えて下さった。要は子どもから大人まで、音楽のジャンルも超え、世界の友と交流するコンセプトだったのだ。それは「協創」の原型であり、新たな時代の創造に会員諸氏の支持をいただいたのかもしれない。

 作曲家は個人営業で、自作の力で多くの人びとと結び合っていることは今も昔も変わりはないのだ。その団体が作曲を通して世界と文化交流することは当然で、01年には「ISCM世界音楽の日々 横浜大会」が開催された。しかし現代では、それに加えてプロの音楽家(作曲家)が社会の人びとや次世代の子どもたちや、特に社会的な弱者にどうサポートするか問われていて、その活動も大切なのだ。個人だけでなく、団体としての使命が求められているはずなのだ。そこで90年以降の活動を充実すべく、日本でも初めての「音楽教育プログラム」をもつ活動チームを01年以降立ち上げ、学校や社会で活動を開始してきたのである。学校の子どもたちや市民との「協創」が展開していく時代が生まれたのだと思った。

協創時代 ①

 四半世紀前から拙作に「みんなでつくる」音楽活動が増えて来た。協働ではなく「協創(Creative collaboration)」というコンセプトだ。

 それはただ人びとが集まり、思い思いに音楽をつくるのではなく、一つのテーマを全員で共有し、プロもアマチュアも障がいのあるひとも、同じ目線で自分の技量と表現で、智恵を互角に出し合ってつくりあう工房、を意味していた。だから成果をあげることだけに意味があるのではなく、つくり合っている時の生きた音楽に意義があるのだ。もちろん発表の機会を否定しているわけではない。その優劣を競うことに意義があるわけではないからだ。

 企業なども同じキャッチを使っている活動を見たことがあったが、私の意図は技術の無い、社会的に弱いひとでも、過去の大作曲家と一体感が持てて、誰とでも仲良くなっていい音楽がつくれる、という意味の「協創」なのである。

 これまでに成果を発表したのは、 96年に「みんなでつくるシンフォニー」があった。東京フィルハーモニー交響楽団と子どもたちのワークショップでつくった音楽と、当日ご来場くださった市民のみなさんとつくった音楽。98年の「みんなでつくるコンチェルト」など、多くの人びととたくさんの音楽をご一緒させていただいた。協創はみんなのものだよ、という世界は民族音楽とは別の喜びがあって楽しくていいと思っている。

繰り返し

 CMでも使われる手だが、同じ言葉やリズム、アクションを繰り返す作り方をしていることがある。人は同じことの繰り返しが記憶に残りやすいからだ。但しやり過ぎると「くどい」と拒絶反応が生まれるので、ここでも昔から「仏の顔も三度まで」がいい。

 音楽の多くも一つのことの繰り返しでつくられていることが多い。全く同じ繰り返しは飽きられ、表現の薄さ、教養のなさ、耳につき過ぎるいらだちで、三回以上の繰り返しは効果がない。

 一つのメロディーを例にとっても、基のメロディーを繰り返しながら、他の人の手と違うテクニックで展開させることが、常に新しい世界を生み出してきている。そのテーマに対照的な話題のテーマをもう一つ提示させ、同一曲に共存させると新たな形式を生み出し、そのルールの中で話題は沸騰して盛り上がりの中で結論に向かうことが多かった。

 盛り上がらない、テーマを繰り返さない音楽もあるが、圧倒的に一つのテーマを繰り返しながら、手を替え品を替え如何に他の人と異なる表現でエクスタシーを感じさせたが、名作となり残ってきている。だから名作がひとつのことをどう繰り返しているか分析すれば、仲間どうしで「音楽づくり」では簡単なモチーフから超大作をつくることが可能なのだ。

 もちろん数パーセントのオリジナルが生まれるためには、繰り返すというコンセプトからみんなで他の音楽との差異性など考える必要はあるのだが・・・

東日本大震災とハートライン

 東日本大震災が起きた一ヶ月後、私は宮城・福島を歩いて回っていた。音楽家でも自分の肌・耳目でこの大災害に触れることは大切だと思ったからだ・・・空気のニオイが厳しかった。 いつもは聞こえない音が鳴っていた。人びとの様々な命が重なって無音の中でも渦巻いた響を感じた。それはTVでは伝わらない世界だった。そして「災害支援」の旗・幟(のぼり)・横断幕を掲げたトラックが長蛇の列をなして街に入っていく様子は感動的な風景だった。そして地元の文化施設でお世話になり育ててもらった音楽家の人びとが「いま私たちに出来ることを手伝いたい」と、文化施設に多数の人びとがボランティアで訪ねて来たことには、深い感動を覚えた・・・

 災害の時に最初に復旧させるのは、水や電気、食料から道路などのライフラインだ。その次に必要なのはひとびととのつながり、「ハートライン」だろう。

 子どもが負った傷のケアも大人は考えている。県や市役所の関連窓口、学校の先生、地域の民生委員諸氏がそれぞれの活動をしている。プライバシーがあるから何とも言えないが、それぞれの役割に応じた活動であって、横の連絡も調整もないのでバラバラ感は否めない。

 それを公立文化施設などの講習会で提言して検討したが、どうハートラインが組めて、どんな活動が展開できるか優れた答えが出ないままでいるような気がしている。一つの決定的な答えでなくてもいい。悩みは災害に遭ったひとびとの数だけあるからだ。そのラインをみんなで考え共有すると、子どもたちに「やさしさ」がしっかり伝わるかもしれない。それが財産を生むことになると思った。

地域での人財育成

 自分たちの住む町には文化芸術に優れた人が必ずいる。その人びとと出逢い次世代の文化育成の種を蒔く、というのが私の文化事業の理念であった。
 文化事業のサポートで私は全国の公立文化施設にお邪魔してきた。どこの会館でも最初に職員のみなさんにお尋ねすることは「この町のひとを含めた文化的な財産は?」ということだった。普段気が付かない優れた町や村の文化財や、若い文化芸術に秀でたひとは潜在的に結構いるものだ。一人の存在を発見すると、世界の友まで田舎でも文化施設がつながることもあるからだ。以前にも述べたが「ここにもある企画、ここにしかない企画」の両輪が生きてくるのだ。
 注意しなければいけないことは、地元で教室などを持っている事業には触れないこと、地域で邑をつくっているボスではないひとの参加が大切だ、ということだった。しかし依頼者が私にサポートを期待した多くは、一流人への人脈づくりであり、国内外の一流団体やソリストやTV番組などが少しでも安く誘致できる手だてだった。買い物による鑑賞企画は、世界の超一流団体でも資金があれば何時でも何処でも誰でも叶う話なので、文化の種蒔き企画を拡げる事業とのミゾは大きかったように感じた。
 私が最初に市民文化会館の文化事業を仕事としてご紹介していただいた時も、最大の願望はクラシック音楽の充実にあったようだが、その基礎を市民と共に築き、文化的な自立から世界の異なる文化の価値観と交流する、というアイディアには失望させてしまったひともいたようだった。

音楽づくりと作曲家

 子どもや市民と作曲家が同じ目線で音楽をつくる、という活動は30年前には余り聞かなかった。まして学校の音楽室で一緒になって音楽をつくる、ということは考えられなかった。四半世紀前から音楽家が学校で生の演奏を聴かせる活動が盛んになった。本物の芸術を聴かせる、ということで演奏家は耀きの場に参加するようになった。
 問題は演奏家が主役で輝いて帰ってしまうことにあった。別に本物の芸術を提供したと思っている人びとを腐すつもりはない。ただ、学校では先生をサポートさせていただくことが大切で、その手だてによって鑑賞の感動が後に生かされると思うのだ。そこで最近の学校の音楽室で何が生まれているか紹介させていただく。
 「新しい音楽教育を考える会」の 『TASモデル』。そこで私は20年程前から「みんなでつくるコンチェルト」などのためにつくった「パッサカリア」のテーマで、教室の子どもたちとプロの音楽家がサポートした授業記録が Webサイトからどなたでも見ることができます。
 icme.jpから入り、「ジャーナル」の4号をご覧になると、約110ページの記録と動画に出会えます。

日本音楽集団・第232回定期演奏会

 日本音楽集団は邦楽をメインに据えた新作を含む意欲的なプログラムの演奏会を、半世紀以上続けている素晴らしい邦楽器の音楽団体である。同団がこの2月15日に豊洲シビックで「現代に生きる私たちの音楽」という演奏会を開催した。
 夏田昌和、細川俊夫、川島素晴、北爪裕道、権代敦彦の作品で、それぞれ国内外で活躍していて定評のある作曲家諸氏だった。
 これまでの同団の委嘱作品は、伝統的な邦楽器の手のウチを基にした新しさだったが、今回の作品はその手を超えていた。つまり邦楽器であり、正にそのアンサンブルに違いないのだが「新しい手のウチ発見」という世界が展開されていた。
 夏田作品は、箏の調弦がズレテいて、それが妙な響を生み出していた。だから箏で今まで聴いたことのない歌が揺らいで生まれていたのである。
 権代作品は邦楽で表現する鎮魂歌のように、邦楽器が古典で鳴るアンサンブルとは違って、それぞれの楽器が響き合って、呼び掛け合っているから驚きだった。
 
 新しい音楽を生み出そうとすると、今までにないハッタリのような表現が多く見られたりするものだが、細部を超えてそれぞれの作曲家は音を自分の世界に呼び込んでしっかり語っていた。充実した演奏会だと思った。

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