坪能 克裕 公式ウェブサイト Ⅲ(2001〜)

Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

Page 5 of 15

コラボ・コンサートの開催

坪能克裕音楽監督の「ワールド コラボレーション コンサートIII」が開催されます。
 今回は五カ国の演奏家・作曲家が自国の音楽や日本と関連するオリジナル作品を持ち寄っての開催です。

 音楽による国際交流は、昔から多種多様なイベントが各地で行われていました。これまでのプログラムは、各国の名作を演奏・歌い合ったり、一緒に踊ったりすることが多かったようです。
 この頃は一歩踏み込んで、参加国の伝統音楽やオリジナル作品の交換も見られるようになりました。
 この会では、さらに踏み込んで、交流し合う国の音楽の要素などから新しい音楽を生み出して次世代に残して行こう、というクリエイティブ コラボレーションが特徴です。
 
 2023年1月に紀尾井ホールで、3月に東京タワー展望台333特設スタジオで、それぞれの会場に合わせたプログラムです。もちろん国外にも動画は公開されます。
 お楽しみください。

歌のひろば②

 一握りの声楽家以外、1時間ものステージを歌い続けて聴衆を魅了できる人はいない。一般的な声楽家のステージで、前半・後半と分け、途中休憩を挟んで2時間のステージは暴挙だ。本人の音楽力や体力も大変だが、聴き手の辛抱は限界を超えているからだ。
 せっかく切符を買ってホールにいらしていただいたのだから30分では高すぎる、と思われることもあるようだが、結婚式など全ての祝辞に共通する話だが短いに限るのだ。

 広場で、自分も歌うが、参加者と一体になって歌い合うことや、参加者の歌を聴いて楽しむことが加わっていれば素晴らしいのだが、それは無理な話のようだ。
 聴衆は聴く役だと思っているし、歌い手は自分の世界を披瀝して拍手をいただくモノだという概念から抜け出せないからだ。
 でも歌い手の元に人びとが集まり、一緒に歌い出したくなる環境もあり、みんな楽しく一体化できる広場があることが素晴らしい、と思っていたがなかなか賛同する人が少なかった。これからそんな広場が当たり前になっていくと思っているが・・・

歌のひろば①

 リサイタルには固定イメージがある。歌のリサイタルに絞って話そう。
 誰もが想像するリサイタルは、二千人のコンサートホールは別格として、数百人の座席数のホールで、男性は燕尾服、女性は結婚式のようなロングドレスで、90分前後のレパートリーを歌う会だろう。
 夢のようなひと時を共有できるスペース・・・と思っているのはステージで歌う人。義理と人情で成り立っているコンサートがほとんどだ。30分以内なら我慢できるところだが、人の迷惑を考えないで、自分の価値観を多くの人びとに押し付けたい人には、なかなかそのヘンを気付くことが少ない。

 今はステージの上で歌いまくり、拍手喝采を糧にすることは、時代錯誤だと言える。勉強の成果を発表するには時代の空気を読んだ方がいい。質のいい情報がメディアから日常的に確保できる時代に、スターの真似をする価値は薄い。

 「ひろば」でいい。サロンや(許可を貰って)ロビーでもいい。持ち運ぶ可能な伴奏楽器か、パソコン音源でもいい。五人でも十人でもいい。自分の歌はオープニングに1曲。後半オハコを1曲。フィナーレに1曲。アンコールがあればもう1曲で十分だ。回数を重ねて「また聴きたい、一緒に歌いたい」人が増えていけば、ステージでの交流もあるだろう。

 その3曲プラス1曲の合間に、参加者と歌うこともできる。主役の歌い手が「聴き手」になることや、同じ歌う仲間になってコミュニケーションをとることが社会活動としてならば大切なのだ。「雲の上の人」になって聴かせるだけがいいわけではない・・・というアイディアを話すと、歌う人は飛びついて賛同する。しかし結果は切符を売って、スポットを浴びて2時間も歌いっぱなしの企画になってしまう。何かヘンだ。

褒められて育つ②

 一時期、放送やレコーディングのスタジオで、自作の劇音楽や他者の編曲作品などのオーケストラ曲を多数指揮していたことがあった。メンバーは在京のオーケストラからの選抜チームで、各楽器の名人が集まっていた。
 一曲に付き、楽譜のチェック用の音出し、テスト録音、そして本番の順だ。録音を確認して、事故がなければそれで OKが出て、次の曲に進んで行く。
 スタジオは室料と楽員の演奏料、技術料だけでも1時間数万円、人数によっては数十万円掛かるから、手際よく高品質でまとめて行かなければならない。

 そんなスタジオ仕事をしていたら、「指揮者になったら?」「在京オケのステージも務まるぞ!」というお褒めの言葉を何回かいただいた。褒めなれたことの少ない人は狂喜乱舞するかもしれないが、これだけは笑って応えなかった。

 指揮者が務まる人は指揮者になるべくして生まれて来ているように思っていた。音楽の様ざまな能力を持っているだけでなく、存在だけで音楽により人をとりこにさせる「華」がある。一緒に音楽をしたいオーラに包まれている・・・凄い力を醸し出してくるのだ。そんな力は私には無い。スタジオでの限られた条件のなかならみんなで創る作業はできるが、多くのファンに囲まれて輝けるのは、宇宙人とも会話できる一握りのひとだけだと思っていた。
 現在、多くの若手指揮者の活躍を見聞していると、惨憺たる有様になっていない自分を褒めてあげたいと思っている。

褒められて育つ①

 這えば立て、立てば歩め、の親心から、人は褒められて育っていく。
 食べ物でも、運動でも、本や勉強でも、好きなものを見つけ、親や友だちも優れたところを称賛して、本人も妬みを躱しながら褒められる世界を反復させて、才能を開花させていく・・・
 褒めて育てる、という著書の何と多いことか。

 音楽家も同じだ。歌が上手いね〜、声がいいね〜、ピアノが上手だね〜、身体表現がすごいね〜、など親や先生、仲間から何か褒められながら、本人もそれを柱に精進していく。作曲も「あそこがいいね〜」など褒められると、そこの特徴を生かした音楽を何度でも繰り返していく。
 「曲芸のサルと同じじゃないか」と言った人もいた。拍手をもらうために何度でもウケタ事を何年も繰り返していく。賛辞は性だ。

 私事で恐縮だが、音楽の勉強過程で褒められたことが無かった。歌うと、なぜか仲間は笑った。ピアノは二十歳の時から弾いたが、感心されてアンコールの呼び声も無かった。作曲も誰かに感心されたこともなかった。師匠からの「自分がいいと思ったらそれが一番いい」という言葉だけを信じて生きて来てしまった・・・誰からも褒められないので、自分で褒めて書き続けてきた。ヘンな話だ。

人間関係の悩み

 親が幼稚園や保育所に行く頃、子どもに対して心配する一つに、友だちができるかどうか、仲間と上手くコミュニケーションがとれるかどうかがある。
 大人になっても、性格の不一致や、人間関係の悩みに苦労する人が多い。
 相性の良し悪しはあるが、人間関係が上手く行くなんて考えること自体無理がある。そのくらい多種多様で、理解しあうためにはお互いに大変な努力がいる。また性格が一致するなんて気持ちの悪い現象を信じている方が可笑しい。

 人びとが住む環境や文化、言葉や宗教も違うし、そこに利害関係が加わると私たちは簡単に国際親善ができる、なんておこがましくて言えたモンではない。
 音楽仲間でも同じで、音楽を通した世界だって様ざまな価値観で満ち溢れている。人とはトラブルのが当たり前で、悶着あることが創造につながっている。

イントロ勝負

 「イントロ当てクイズ」という音楽番組のコーナーがあった。数秒聞かせて回答者がタイトルを当てる企画だ。よく当てるマニアがいてびっくりしたことがあった。タイトルも大切だが、イントロは作曲者や他との差異性が出て、作品の生命線にもなっている。

 作曲家がゲストで議論に加わる企画など良くある。自己紹介でも、議題の扉での意見でも「爆弾発言」をする人が結構いる。イントロが大切なようだ。良く聞くと、中身は大したことではなくても、その後は普通の意見になっても、冒頭部の切り込みが面白い。作品を書くことと同じような人もいる。

 名曲の冒頭は、必ず爆弾導入かというとそうではないが、しかし静かに始まっても音楽構成(表現)は爆弾発言のような展開に広がっていく。

糸電話

 紙コップの底に糸を付け、ピンと張った二つのコップ間で会話をし合うと数メーター離れた人どうしが会話を楽しめる・・・誰もが子どもの頃、一回は経験した科学的なあそびだ。

 柔道で(相撲でもいい)、相手と組むと同じ現象を味わう。つまり相手の腰の動きが組んだ手から伝わってくるからだ。だから相手の動きが分かるから、それに対応すれば良さそうに思えるが、勝負や腰の動きは分かったから対応できるほど簡単な話ではない。一瞬で力の関係は変わり、勝負は決まる。ただその動きの応用を他に出来るかどうかで面白くなることもあるようだ。

 人と人との交流は、慣れると糸電話と原理は同じように見える。つまり組手に至らなくても、聞こえてしまうことがあるようだ。心の瞬時の動きは糸電話で話しているくらい伝わっていることもある。人はそこにいるだけで、実は糸電話で話しているのと同じ現象にあっている。

七つの机

 七面六臂という言葉がある。作曲の活躍でも言える話だ。とにかく、ドラマの付帯音楽を同時に数本、発表から出版に向けた合唱作品が数本同時に、現代音楽の器楽曲、オーケストラ作品、ミュージカルなど、続々と発表していた作曲家がいた。

 これも一つの才能だ。「引き出し」が幾つもあって、注文やジャンルに合わせて多量に発表し続けることができる・・・同じ机で書いていたら混乱する話を「七つの机」と評して賛辞の意で雑誌に書いた。

 ある時電話のベルが鳴った。当の作曲家からだった。「オマエ、何をデタラメなことを書くンだ」と、エライ剣幕だった。ところが悪気がない話なので「何が?どうして?」と怒鳴り声と噛み合わない話で時間が過ぎた。ケロッとした返答に愛想がついた声を出して電話は切れた。きっと机など七つもなく、それが嘘に思え、チャカされたと思ったのかもしれない。それくらい文章は読み手によって変わってしまうようで怖いと思った。

 その昔、劇版(ドラマの劇音楽)で、氏の書いた音楽に注文をつけたことがあった。これも氏の音楽に関心があったことと、意見を言うことによるコミュニケーションの意味があったが、その後何回も面白可笑しく公の場で宣伝されてしまった。具申というものは然程難しいものだと思った。

« Older posts Newer posts »