坪能 克裕 公式ウェブサイト Ⅲ(2001〜)

Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

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一音曼荼羅

 演奏会で、楽器を持参した演奏者が登場する。ルーティンでチューニングの意味も含めて音を一つ二つ出すことがある。実はその一つの音で次に表現される全ての世界が予告されている。
 一節(ワン・フレーズ)演奏する。冒頭の音よりも、フレーズの尻で技量が分かる。コンクールだとそれで本当は点が出ていることがある。

 音そのものの優れた世界や、フレーズの歌い方一つでその演奏者の技量が出ている。テストで(観客の後ろを向いて)音を試演しても、本番以上の世界が既に語られている。演奏する前の佇まいで音楽曼荼羅が聞こえているわけだ。だから序の段階で、熱してクライマックスに達する前に、勝負あったということになる。ステージの上では全てがアートなのだということだ。

白蝶(はくちょう)の湖

 以前本ブログで、名村 宏作詞の合唱曲「蝶の谷」の話を書いた。その続編というわけではないが、ピアノ曲で「白蝶の湖」という曲があった。白蝶は美の化身であるという物語もあるが、おとぎ話に意味があるのではなく、変奏する姿(音楽)に意味があった。しかし日の目を見ないでとうとうオクラになったママになっている。

 それだけではない。三絃の独奏曲で、言葉あそびのテキストを語り弾きする音楽で、シャレも含んでいて私は大いに気に入っていたが、演奏家は嫌ったママでいる。

 言葉あそびを伝統的な奏法の演奏でシャーシャーと歌い上げ演じると面白いのだが、演奏家の誰もが賛同しなかったことになった。

 合唱曲で低音の唸り声から始まる奇妙な世界を描いたことがあった。唸り声と叫び声から広がる音世界は斬新な表現で私はすっかり気に入っていたが、声楽を学んだ人びとにはヒンシュクだった。結局誰もステージには乗せてくれなかった・・・結構私が納得した音楽でボツになったモノが多いという話だ。

 ボツ作品だけでリサイタルをやったら私も聴者も大満足だと思うが、その道の達人諸氏に受け入れてもらえない音楽は、やはり日の目を見ないことに意味があるのかもしれないとも思っている。

現代音楽の衰退

 音楽の最前線を表現するコンテンポラリーは無くならないだろう。世界の音楽の1%以下のファン数になっても、全作曲生産の0コンマ幾つかの数になっても、生き残っていくだろう。それは人智の音楽の極限からの叫びを求める人びともいるからだ。音楽世界の新次元は何時の時代でも望まれている。

 ただ聴者は増えていない。ファンは偏っているようだ。その最大の問題は、私も含むが「音楽の構造の秘密」と「聴き方」への誘いの努力を怠ってきたからのようだ。どこをどう聴いて、何を理解したらいいのか、その手ほどきや案内に精力を使わなかったことが問題だったようだ。だから最初は面白そう、変わっている・・・でも何回も聞きたくない、分からないのは自分の恥だ、と思わせたことが衰退に向かった理由の一つだと思われる。

 音楽系の大学や専門学校の先生も兼ねたひとは、切符を学生に売りつけたり、自作の作品発表に関する感想文の提出で出席や単位を出したりしていては、若い人びとの嫌悪感だけが残ってしまうことになってしまう。

 どうつくられていて、今までと(他人と)どう違い何が面白いと思っていたのか、言葉でも伝える努力をしないと、もっと衰退してしまうようかもしれない。

簡単なこと

 ひとは簡単なことができないことがある。演劇でもアマチュアは簡単な仕草ができない壁がある。プロは難しいことも簡単に演じてみせる。ちょっとしたことの差はとてつもなく深くて広い。

 昔、ベートーヴェンが偉いのは第九(合唱)などの交響曲や協奏曲などの大作が素晴らしいだけでなく「エリーゼのために」のような曲があるから凄いと雑誌に書いたことがあった。ヒット曲や名曲は簡単なことから始まっている。もちろん簡単にヒットするわけではない。創るひとに百の力があると、力まない数%の力で千の世界を伝えてしまう力が凄いのだ。アマチュアの人が書くと、頑張ってみても目も当てられない幼稚な音楽になることが多い。いや軽蔑して言っているのではない。誰でも最初はアマチュアなのだが、力まない秘めた力を自在に活用できる所までに至っていることが凄いことだと思っている。簡単なことができるということは、その人の実力内の余裕から生まれてきているようにも思える。

 そういえば、歳をとると簡単なことができなくなっていくようです。アマチュア化していくということでしょう。しかし全てはそこから始まったと思ったら、基本に戻っただけで、それも楽しみにするのがいいと思っている。

訪問の鈴

 本ページに訪問くださっている人びとにお礼申し上げます。多くの人びとが訪れてくださっているわけではありませんが、十代から高齢者まで、また様ざまな分野の人びと、よく知っているひとから初めて出会うひとまでおられるようで、言葉で言い表せないほどの感謝をしています。

 私は偉いひとでも、音楽の実力者でもありません。街には天使のような人びとがたくさんおられて、その交流の途中で生まれた感激を「自分に言い聞かせている」と言った方が合っているかもしれません。一方トンデモない人びともおられます。社会の裏側など私の知る限りの話を端から書き記して見たいと思っていましたが、私の役ではなさそうだと思っています。自分の失敗の記憶ばかりが焼き付いているようです。それを即興とコンテンポラリーで少々メモを残してみたいとも思っていました。

 もうすぐ Webでの発言は終幕です。いい年寄りが過去を言い出すのはみっともないとも思っています。創造的な文化・音楽活動の私が多少関与する「いま」を、もう少し継続させていただくことをお許し願います。

お知らせ

 

 音符が書けない自己流【はな歌】でも公募できます。

 マザーアース社で歌の公募を開始しました。あなたも挑戦してみませんか?
 いくつかの部門がありますが、坪能が審査にも参加している要項を抜粋しました。

募集要項

目的
だれでも楽しめる歌、おもしろい歌、新しい歌を募集いたします。

演奏対象
だれでも口ずさめる歌。 応募資格:世界中からどなたでもご応募いただけます。

作品形態
歌っている動画(伴奏自由)。非公開動画(指定のサイトに動画をアップし ていただきます)。未公開のオリジナル作品のみ応募可能です。編曲作品やかえ歌は応 募不可とします。動画配信に不適当と判断された映像や内容は失格とします。

  • 本人歌唱でなくても良い
  • 無伴奏のメロディーだけでも良い
  • 希望楽器の伴奏で歌っても良い ・歌唱者がメインの動画でも、歌唱者の映らない風景でも、創作アニメなどと一緒でも良い

演奏時間
3分以内

参加費
2,000 円


推薦スタンプ!付き公開 10 曲。賞金:(各1曲 5,000 円)

副賞
推薦スタンプ作品集への掲載出版。
募集趣旨や出版•作品普及のために、編曲・ 補作される場合がありますので編曲・補作を許諾了承する作品を応募してください(著 作権は出版社マザーアースとの契約になります)。
翌年以降に実施予定の、スタンプ作 品の最優秀作品賞への応募が可能になります。

審査基準
多くの人びとが一回聞いたらすぐに歌える楽しい歌に「推薦スタンプ」進呈! し公開します。スタンプ受領作品は、次年度以降の企画に優先的に推薦されます。

推薦スタンプ選考委員
坪能克裕、中西覚、丸山貴幸、丸山夏季、橘治霞

注意事項
エロ・グロなど人々が不快に思う動画や、著作権で問題があると審査員が判断した動 画は失格とします。著作権侵害のある作品は、推薦後であっても発覚した場合は、推薦 スタンプを取り消します。(その際の審査料は返金しません。)

締め切り
12 月 10 日

発表方法
2023 年 3月5日東京タワー文化フェスティバル VI にて、発表しま す。
推薦スタンプ作品を You Tube で 2023 年3月 10 日より公開します。

応募方法
1)以下のメールにて応募シートご依頼ください。
E-mail: info@cspc-japan.com
Phone: +81-3-3455-6881
Fax : +81-3-3455-6883

2)規定の応募シートにご入力の上返送し、参加費をお振込の上、オンラインでエントリーください。

打楽器奏者

 打楽器は拙作のなかで、絶えず重要な役割を担ってくれてきた。マリンバを含め、芸術祭や日本レコードアカデミー賞などにも縁があった。

 だから私は演奏者に関して特別な思いが打楽器奏者にあった。しかし痛い目にばかり合わされてきたのも事実だった。

 「音楽づくり」を文化施設の人びとに体験していただき、地域文化振興にも役立てていただきたいと思って実施したことがあった。自分たちで「つくる」「表現する」、その芽を文化育成の原理として役立たせる、という意味で全国大会の別枠で企画していただいた時間を私は受け持った。

 小学校などでの幾つかの失敗を活かすため、音大卒の打楽器チームと打ち合わせをした。初めて打楽器を手にするひとが考えて、叩けて、それを一つのフレーズとしてつくったものを繰り返して、即興で表現していく手立てを徹底してリハーサルを繰り返した。全員分かったような顔をして舞台に登った。

 舞台では打ち合わせとは異質なレッスンが始まっていた。そしてグループに分け「サンバ」のパターンを押し付けていた。全員で舞台はサンバの祭りでも盛り上がって行った。全国に「音楽づくり」の誤解を伝達してしまった。

文化事業のやり残し②

 学校と連携した文化事業に対して、結局私は十分な成果を上げられなかった。
 文化施設は教育の場では無い。学校とは違う。しかし柔らかな「社会教育」のひろばとして愛されてきた。公民館、文化会館と、それぞれに成果は上げてきていた。合唱だって、ブラスやオーケストラだって、日本の伝統文化でも実績は大きいし、誰も不満に思っている人はいない。

 「つくる」ということが大変だ。過去を保持すれば生まれるというものでもないし、破壊すればいいわけでもない。そんなに創造性を人々が求めているわけでもないだろが、文化を守るということはアグレッシブルな姿勢も必要だ。それを考えると億劫になることもあるが、学校の成果を一段高めるには文化施設の創造の場への開放が必要なのだ。その手立てがありながら、鹿鳴館時代の延長文化を追従しているところには、目が行き届かない現実がある。もったいないとも思いながらも私には限界があった。やり残してしまった感がある。しかし誰かがこれをクリアし、育ててくれるように思えるが、もう少し時間が必要かもしれない。次世代に期待したい!

文化事業のやり残し①

 全国の公立文化施設に文化事業の相談に伺わせていただいた日々があった。
 文化施設の希望は市民にアピールできるイベントの招致が一番だった。世界で、日本で、誰もが知っていて(それゆえ集客が可能、話題性があり、紹介があると割り引かれ、その結果実績にもなり、赤字が少額)企画の「招致」方法だった。要はツテを頼りのプロモート助言が多かったようだ。
 
 私の提案は、地元人材(地元の名士だけでなく、若い音楽仲間とそのつながり)の発掘と、情報だけでも交流して「何が生まれるか」考え、生み出すことだった。でも誰でも地元でなく、東京や世界の有名人とのコンタクトを望んでいた。
 結果的に有名団体の招聘でもいい。しかし「私たちの文化も伝統芸能だけが護られているだけでなく、新しい文化の命が生まれていて、そことの交流が無いのは“消費”だけだ」と私は思っていた。文化は消費と創造が車の両輪で、田舎といっても創造する心はパリやニューヨークと同じだ、というのが考えのベースにあった。でなければ青い目の文化が第一だと思う過去の姿勢と同じよう思えたのだ。
 全部の文化施設が同じ姿勢でないまでも、市民の文化会館への期待はがっかりするものだった・・・いや、本当は市民の文化の価値観は進んでいて、世界のポップスなどへの価値観は最先端で、それを文化施設が把握して、実行するまでに時間が掛かっているということもあるだろう。ポップスなど集客人数からして同列で論議できないこともあるからだ。
 

慣れるより習え②

 小学校の教室で「音楽づくり」を楽しむことにした。東京下町の小学校5年生ひとクラスに、音楽教育の専門家(学校のクラス担任と音楽教師も加わり)、作曲家の私、そして打楽器奏者3名ほどでチームを組んだ。
 子どもはプロのひとの仕草(表情から技術まで)を見ているから、技術を「教えないで、子どもが発見するまで待ってね」という依頼をした。何が違うか「考える」こと、素敵な音を「発見する」ことが一番大切で、それを基に簡単なリズム・パターンを子ども自身が考え、「つくり」「表現する」ことが目的だった。
 当然、子供をサポートする専門家チームは打ち合わせ、シミュレーションを繰り返し、本番に望むことにした。

 子どもたちは楽器庫から思い思いの打楽器とバチを出してきて叩き始めた。音が静かになったので、どうしたのか見ていると、打楽器奏者それぞれの前に子どもを一列に並ばせ、バチの持ち方、正しい打楽器の叩き方の「レッスン」を始めていた。
 打楽器からどんないい音が出せるか、考える時間を持たせることなくカタにはめて行った。きっと打楽器奏者の生い立ちもそうだったのだろう。そしてそれ以外の手立てを持ち合わせていなかったのだろが、本末転倒な時間になって行った。この打楽器奏者との体質はもっと大きな問題を産んで行った。

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